言語と創造について

In principio erat Verbum,et Verbum erat apud Deum,et Deus erat Verbum (Secundum Ioannem)
昨晩は「萌え」について下記のように学習したが、今日はuumin3さんの以下のエントリについて学習した。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060214#p2
内田樹の研究室「言葉の力」開題
→元ネタは内田樹氏の以下のエントリを受けての話である。
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/archives/001559.php
言葉の力
→「ゆとり」から「言葉の力」へ。ということで文部科学省ゆとり教育をやめて、再び国語力をつける教育へと転換しようということらしい。また、以下の朝日新聞のコピーがとにかく虫酸がはしったというのでそれについてである。

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言朝日新聞

このエントリを読んだとき、なんだか判りづらい文章だなぁ、と思っていたのですが、その辺りuumin3さんが指摘しておられたので、ああ〜、私の頭が悪いだけの性ではなかったのだと安心した。かしこさが「戦士」並にしかアップしない「賢者」に転職したい自らの脳のせいでなければなんだというと、まぁちゃんと名前を書けるかどうか自信のないウドンがどうたらというドイツ臭い名前の哲学者とか、仏像みたいな名前の哲学者の話がでてくるから余計判らなくなるのであって、そういう余計な身を削いでなんの話かというと、内田氏の考える言語表現についてという按配。
内田氏のエントリに対してはuumin3さんが論評しているを読んでいただくとして、「創造」というものと「言語」について、やはり冒頭に引用したヨハネ福音書の言葉を連想してしまう。
神はこの世界を言葉によって創造した。キリスト教ではイエスは神のロゴスと理解されるが、創世記における創造の業においても「言葉/ロゴス」は重要な作用である。「光あれ」と神が言うとき、光は創造される。それ故に福音使徒ヨハネは「万物は言葉によって成った」と考えた。或いは動物達の頭としてのアダムのはじめの仕事は動物達の「名付け」であった。名のつかないものは存在しえない。名がついてはじめて存在するのであるが、同時に「名のみが残る」という場合もあるが、まぁそれは置いておいて。
内田氏のエントリのコメント欄ではなぜか朝日新聞の問題となってしまっているが、もともとの文脈では「まず日本語を」というご本人のエントリを受けてたまたまその文脈で目に付いた文章なのでしょう。確かに上記の朝日のスローガンはわたくしの琴線には全然触れません。「信じる」という容易さが危うく感じられるので。そして言葉それ自体よりも発する側の内面において、また受け手との関係性において言葉は「感情的で、残酷で、ときに無力」であると思うので、「言葉の力」という「言葉」という主体にそれが結びつかないのでわたくしなどは違和感を覚えます。
内田氏は書き手の内面にあるなにかが言語化されることによってあきらかになるという作用について述べておられるわけですが、創造におけるシステムというのは確かにそのようなメカニズムがあり、言語に限らず、例えば絵画表現においてもそのような現象はいつでも出くわすわけです。無意識に描くという行為を行うことによって無意識下にある自らの考えがキャンバス上でまとまっていくことなどもあり、そういう意味では「まず日本語を」というエントリで語られる「自動書記」に近い名文パワーを身にまとうことによって起きる作用というものはよく判ります。先人達の絵画に対峙するときにおいて、いちいち文法分析(絵画的な構図、色彩分析、作者の意図の分析)などしなくとも、それへと相対し、自らの直感的な啓示の精神をそれを通じ研ぎ澄ますこと、無意識下にその絵画の発する感覚的な何ごとかが浸透してゆくことが重要であったりするわけです。
例えば私が文章を書くとき一気呵成に書いてのち、あとでしょうもない処を推敲するという場合が多いですね。特にこのようなブログでは思いつきでだらだらと何も考えずに書いていることのほうが多いのであとで読み返すと酷い文章だなぁと思う事があります。
朝日のスローガンに於ける違和感はもう一つ、非常に一方的な関係性がそこに示されていると言えます。表現の場における表現者と受け手は常に対等でありインタラクティブな関係にあるわけで、受け手は解釈する自由があるわけです。「言葉の力を信じる」というのは送り手のみに重点がある一方的な関係性を吐露しているように感じられるのですね。
言葉と言うのは発せられた時点で自立しますから、そうなると送り手にすら制御出来ない現象というのも往々にして起こりやすい。そのリスクを回避する為になるべくまぁ書き手は色々と頭を悩ますことにはなるわけではありますが。とにかくそういう自立性が言語の性質にはある。結局受け手と送り手の関係性の中で、言語というのは流動的になる場合があると思うのです。そしてそこに創造というものが生じる場合というのも往々にしてありますね。予期しない現象がある。それゆえに自らを越える場合すらある言語に対する畏れというものが無意識に生じてくるというのはよく判ります。その予期しない部分と予測される部分の境界に「言語の檻」というものがあるということに成程。
さてロゴスの宗教たるキリスト教ですが、そのような言語作用の関係性については色々と考えさせられる場面が多く、そもそもが三位一体というシステム自体を理解するにあたってそのような精神活動を要求される。言語に対し無自覚でいられなくなる辺り、やはりロゴスの宗教であるなといつも思ってしまいます。父と子と聖霊の関係性に思いを巡らすときにそういうことを意識すると申しますか。しかし聖書解釈において未だに合意を見ず多くの教派を生じせしめ、あまつさえ争っているこの宗教の歴史において、まぁ「言語の虜囚」たる我々の姿を見いだすことになりますね。
*処で件のコメント欄が異常に盛り上がっているのは、いつの間にか教育論になっていたからですね。そっちの観点から見ていなかったのですが、これは私が創造活動に気を取られている芸術家であるとか、キリスト教徒だから故の檻にいるからであり、あちらで問題としている人々は、教育に敏感であるがゆえの檻におられるからなのではないか?などと思ったりした。
*今、発見したが、内田氏の次の日のエントリ↓は上記に対する解説のようである。
http://blog.tatsuru.com/archives/001560.php
常識の手柄
「他人が書いたことをどう解釈するかは100%読み手の自由に属する。」
→以下自らの文章ですら、現在の自分にとっては自立した存在で自らの属するものでなくなるという話。