歴史の中の女性達

マグダラとイエスというのは多くの人の想像力をかき立てるものがあるようで、実は妻であったとか、恋人であったとか、色々ロマンスという観点から取り沙汰されるが、結局のところは想像の域を出ない。しかし中世にマグダラの人気が非常に高かったところから見て、多くの女性が、それも虐げられた周辺の女性達、家族を持つことが叶わなかった女性達の希望となったのは、そこにロマンスの片鱗を感じ取っていたからだろうか。
実際、マリアは一児の母でありヨセフの妻である。品行善きこの女性にはほど遠い境遇の女性達が、罪の女とされるマグダラを自らに投影して福音書の物語の、復活後のイエスが真っ先にこのマグダラの前に姿を表したエピソードに慰めを見いだしたであろうと想像する。
しかし愛しく慕う人を亡くしたあとのマグダラの伝承は淋しい。エジプトかどこかの荒野で隠修士のごとき生活を送ったとされる。彼女のもとには教えを請うひとが度々訊ねてきたらしいとあるが、とにかくこれも伝承である。
クララとフランシスコの場合、時代が新しいだけに幾つかのエピソードが残っている。フランシスコに共鳴したクララはフランシスコの後を追うように家族の反対に遭いながらも出家する。なかなか情熱的な女性である。しかし当時、女子修道者は世俗と隔離された生活を送るのが当り前であり、クララ達はサンダミアーノの地に居を構えそこで祈りの生活を送る。フランシスコや兄弟達は度々そこをおとづれたようである。
クララにとって、フランシスコは愛しい人であっただろう。自分の意志とは裏腹になかなかに遭えない。フランシスコはあちらこちらに飛び回り説教をし兄弟を励まし、異教の地まで出掛けていく。その間クララはサンダミアーノの地にあってフランシスコが今どうしているのか?祈りの中で想像を巡らせていただろう。彼の為に全てを捨てたクララにとってフランシスコは全てである。女性にとって本音を言うなればそのそばに付き従い、常に共にいることを望んだであろうが、聖域に身を委ねたクララにとってこれは果たせぬ夢であった。それ故、意識のみを彼と共にあることで慰めを見いだすしかなかった。かくしてプラトニックな愛がそこに存在するのではあるが。
世俗に身を置くジャコマの存在はクララの目にどう映ったのか判らない。ただ私であったらとても悲しいと思う。ジャコマの場に自らがいたいと願うのが普通だと思う。フランシスコの死後、彼女は多くの兄弟達の相談相手となった。彼女は長い観想生活の中でフランシスコと常に対話し続けていたので、彼の死後も同様に対話し続けたのだろう。彼女の中で彼は生き続けている。フランシスコにとっては男冥利に尽きる話ではあるが、クララはなんだか淋しそうだ。
それより遡ること100年前のエロイーズという女性はその点、抑圧されたものがない。あけすけで、正直に自らの愛を書簡に託している。一時の情熱に身を委ねたとしか思えないアベラールはその継続する情熱にたじろいでいたようで、持て余しているようにも思える。しかしあけすけにぶつけないと辛かったのかもしれない。エロイーズの場合もアベラールと共にいたかったであろうが、彼女の場合、聖域など別にどうでもよく、愛しい人の傍らにあっていることを本来望んでいたのであろうことは書簡から感じる。クララと違いアベラールの神学的ななにかとかは本当は理解していないんではないかと思うが、その生き様において破天荒故に革新的ではある。彼女にとっては聖なる営みよりも先ずエロスの愛が優先された。アベラールの死後彼女がどう過ごしたのかイマイチ良くはわからない。ただ不本意ながらもあたえられた環境の中で己の才覚を発揮して修道院を切り盛りしていた辺り、やはり並々ならぬ女性であったと思う。