英国/神秘と合理主義

ムハンマド風刺画事件でヨーロッパの中で独自のスタンスを採った英国だが、何故彼らはそのような結論に至ったのか?
内田樹氏は「機能」という観点から解を導き出したが、英国にはそういえば王室が今も残り国教が今も残る。フランスのように徹底して王権を、教会を排除しない。中間領域を設けるというか、無理に壊す必要のないものを壊さないというか。
逆にフランスの革命を見ての通り血で血を争うような様相。教会は徹底的に破壊され、未だにフランス在住の人の話では、カトリック信仰を前面にだすのは恥ずかしいというような土地もあるようだ。(場所によるのだろうけど)確かに友人も言っていたが若い人の間では宗教は辛気臭く古くさく、話に値しないものとして受け止められていると、だから誰も教会巡りにつきあってくれなくてつまらないと愚痴をこぼしていたなぁ。
イギリスではその辺りどうなのかは判らないけど、王室は未だに残り、マスコミの格好の餌食となりながら、英国人の風刺のネタとなりながらも愛されているように見えるし、英国国教はどういう位置にあるのかは判らないが、伝統を未だ守り続けるのから革新まで幅広く自由だ。
案外ラテン的なフランス人のほうが徹底していて、英国人のほうがいいかげんを残しておくというか、逆なイメージがあったのだが、それはもしかしたら機能という点から導き出された結果なのか?なんとなく面白いと思った。

で。まここっとさんが以前、チャールズ皇太子イスラムにラブラブっぽいと言っていたけど、英国は独自にイスラムと仲良くなろうとしているのか?
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マルセル・デュシャンの作品に、中にナニを入れたか作家自体が知らないという作品がある。筒状のヘンテコな形状の入れ物に、他の人が何かを入れてそれを封印する。開けてしまえばなーんだという代物ナノだろうが、判らないというのが重要なのだ。判らないということで中にある存在は無限の可能性を帯び、神秘的な領域へと高められる。
ドクメンタだったかなにかの現代美術作品で、ミキサーの中に泳ぐ金魚が並ぶという作品があった。ボタンがついており、見る側がスイッチを押せば金魚は粉々となる。見る側の倫理が問われる作品で、物議をかもしだした。
昔々、日本に来たある外国人が日本には鍵がないのに驚いた。日本では封印の紙一つで鍵がかかるのだといたく驚いていたのだ。その紙をはがせば容易く中に入る場に、精神的な縛りという鍵がかかるというその有様に驚いたという。
畏怖心、あるいはなにがしかの倫理、神秘というものは、破ってしまえば容易いものであり、無価値な人にしてみると無意味な存在ではあるのだが、しかしそうした「畏怖心」あるいは神秘の存在への感覚というもの、それを無くしてしまう社会というのは、実は殺伐としてくるのではないかなどと思ったりもする。あえて踏み込まない領域。それを常に感じることで想像力が養われる場合もある。神社の境内の霊域を知るというのは見えないなにかに対する想像力を養ってくれる。「もののけ姫」のような、あるいは水木しげるの漫画が未だに人気があるのは、そのような畏怖の心が郷愁と共に思い出させるだけでなく、目に見えないなにかに思いを馳せる歓びを感じさせてくれるからであろう。
カトリック教会は第2バチカン公会議以降、聖域からその聖なる領域をなくしてしまった。ほんとに良かったのか?と疑問に思うことがある。
イスラムムハンマドへの畏怖という思いもまた同じであろう。イスラムの人々はそれを失ってはいけないと、敢て近代的な思考でそれは受け止めない。重要なことなのかもしれないなどと思う。
▼ヘッドライン
○下着姿のフセインが水中で浮遊するオブジェ、『サダム・フセイン鮫』の展示中止
http://azoz.org/archives/200602081336.php
→最近の現代美術は低能化してるんじゃないのか?