寓意・リエバナのベアトを契機として2

先のエントリで紹介した薔薇の名前の表紙画の図像にすこし解説を加えておこう。
アマゾンの表紙を拡大して見る機能を通じてよく見てくださいです。
この表紙画に使用された絵はヨハネ黙示録の5章「小羊、4つの生き物、長老達のヴィジョン」であり、以下のような個所である。

わたしはまた、玉座に坐っておられるおかたの右の手に巻物があるのを見た。それは、内側にも外側にも文字が記されており、7つの封印で封じられていた。また一人の力ある天使を見た。彼は「この巻物を開き、その封印を解くのに相応しいものはだれか」と、大声で言った。しかし天にも地にもそれを見ることの出来る者は、一人もいなかった。巻物を開き、それを見るのにふさわしいものが一人もいなかったので、わたしは激しく泣いた。すろと長老の一人がわたしに言った。「泣くな。ユダ族から出たライオン、ダビデの根が勝利を得た。彼はその巻物を開き、7つの封印を解くことができる。」
さらにわたしは、4つの生き物に囲まれた玉座と長老たちとの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。その小羊には、7つの角と7つの目とがあった。目は、全世界に遣わされた、神の7つの霊である。小羊は進み出て、玉座に坐っておられるお方の右の手から巻物を受け取った。それを受け取ったとき、4つの生き物と24人の長老達は、小羊の前にひれ伏した。(以下略)
フランシスコ会訳)

この個所に先立って天の玉座についての個所が4章に見られ、ベアトゥス写本では別の絵でこれらの光景が描かれている。

その時わたしは幻を見た。天には、開いた門があり、先に、ラッパのような声でわたしに語りかけたあの声が「ここに登ってきなさい。この後必ず起こることを、あなたに示そう」と言った。わたしはたちどころに霊に感じた。見ると天に玉座が設けられており、その座に座っておられる方がおられた。この座っておられる方は、碧玉や赤めのうのようであり、その座の周囲にはエメラルドのように見える虹がかかっていた。また玉座の周囲には24の座があり、24人の長老たちが座っていた。彼らは白い衣をまとい、頭には金の冠を戴いていた。そしてこの座からは、稲妻と雷とのとどろきとが発しており、その前には7つの灯が燃えていた。これは神の7つの霊である。玉座の前は、あたかも透き通った水晶に似たガラスの海のようであった。
中央には、玉座の周囲に4つの生き物がおり、それらは前も後ろも目で満ちていた。第一の生き物はライオンのようであり、第2の生き物は若い雄牛のようであり、第3の生き物は人間のような顔をしており、第4の生き物は空を飛んでいる鷲のようであった。この4つの生き物にはそれぞれ6つの翼があり、その翼の外側も内側も目で満ちていた。そして昼も夜も絶え間なく歌っていた。
フランシスコ会訳)

このようにヨハネ黙示録は、文字通り読むなら他人が見た変な夢を聞かされるがごとき、シュールな幻想に満ちている。図像化するまでもなく非常に視覚的なヴィジョンに満ちていて、多くの人の想像力をかき立てる。かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」という漫画でやはりこの個所は預言的なものとして引用されていた(この漫画では4つの生き物の記述を、潜水艦に見立てていた。玉座に座るモノは主人公たる「ヤマト」であると暗示させるのである)が、多くの人々がこれらを現実の何事かと結びつけ想像力を逞しくさせたのも無理はない。そのせいで黙示録は電波系の宗教家によく引用される羽目ともなる。ことに終末論と結びついて読まれる個所だけに、電波が一体化するとカルト教団を生み出しかねない。現実に黙示文書を用いたカルト教団は多い。カトリック教会はそうした危険性を回避する(勿論、その前に教会がいう処の「正統」からはずれた「異端」回避ということが目的でもある)ためにこうした聖書の読みを教会指導の元に行おうとはしてきたが、それすらも時代の流れによって多くの読みが生まれていった。ベアトゥス註解もその一つである。ベアトゥスは「キリスト養子説(キリストは神に採択された子)」を論じるトレド大司教エリパンドゥスに対抗して「護経論」を書き、このヨハネ註解に於いてもそれらの主張が散見出来るということだ。のちこの論争はウルジェイのフェリクス、アルクインを巻き込んだ大論争となるらしいよ。

ベァトゥスの註解によると4つの生き物は4福音使徒と理解されて読まれる。これはキリスト教の伝統的解釈でもあり、ベァトウスはこれらを「第一の生き物が人の形に似ているのはそれらが理性的性格をおびるからであり、第2のものが獅子のようなのは、戦う力が強いからである、第三のものの姿は犠牲を暗示し、第4のものについては、鷲のその優れた飛翔能力が、その知的観想能力の徴なのである。これがすなわち4福音使徒であり、全体で「唯一の教会」を表している。」と解釈している(引用、『ベアトゥス黙示録註解』岩波書店
まぁ、なんかこじつけ臭いが、このように当時の人がなんとも寓意に満ちた書の記述を一つ一つキリスト教の教義にそって理解していった方法論の一端を知ることにはなるだろう。
このリエバナのベァトウス写本、『薔薇の名前』に於いても、迷路のような図書館で迷ったアトソが目にした書の一つとしてモチーフに出て来る。(そもそもが『薔薇の名前』の根底にあるモチーフ自体が多くを「ヨハネ黙示録」に負っているわけなんだが)
エバナのベアト様のお言葉

「哲学者のだれ一人として「あなたは神の子、生ける神の子」という根本原理を言えはしなかった。しかし、無学で貧しく、労働によって手にタコをつくった漁師ペテロのみが、それを言い得たのである。エルサレムのこの無学な漁師はローマへ移り、無学なままローマの主人となった。それは雄弁なものが為しえなかったことである。」
「これこそが我々の信仰であり、そのうちにあって我々は信じ、祈りをささげているのである。要約して言うなれば、我々無学な人間が学識豊かな人々に信仰を教えるのだ」
(「護経論」ー「ベァトゥス写本註解」岩波書店