まっぷたつの子爵

薄い本なのですぐ読み終ってしまった。

まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)

まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)

メダルド子爵は、戦争で敵の砲弾をあび、まっぷたつにふっとんだ。左右べつべつに故郷の村にもどった子爵がまきおこす奇想天外な事件のかずかず…。イタリア文学が生んだもっとも面白い物語として読みつがれる、スリリングな傑作メルヘン。

昨日読み終えた『木のぼり男爵』を含む「我々の祖先」シリーズ三部作の一つ。
トルコ兵によって真っ二つにされた子爵は半身がそれぞれ善と悪とに別れてしまう。故郷の村の人々は先に戻った悪の半身に苦しめられ、遅れて戻った善の半身に期待するも、善の半身もやがて疎ましがられるようになる。半分半分っていうとアシュラ男爵を思い出すけど、アレは男女の半身がくっついた人でしたね。ヘル博士によって発掘された古代ミケーネ人のミイラを・・って、そんなことはどうでもいいや。とにかく半分となった子爵はその半身が自立し、思考し、行動するも彼らはそれぞれがまったくの悪、まったくの善として振る舞う。そのために故郷の村の人々は甚だしく困惑させられてしまうのだ。
ともすると原理主義的な思考はそれがたとえ論理としては一分の隙もなく正しくても現実に応用されると大きな迷惑を人々に与えることがしばしばある。それは例えば善を標榜するキリスト教史などをみても判る通り。倫理に正しくあらんとするモノがはじめは受け入れられたとしても最終的に疎まれるのはサヴォナローラの末路をみれば判る。理論はあくまでも理論に過ぎず、不条理な、予測のつかぬ現実に対しては矛盾した思考、或いは価値で相対せねばならぬことがある。
カルヴィーノ第二次世界大戦末期、パルチザンとしてドイツ軍と闘う。その体験をもとにしたリアリズモ小説を書き文壇デビューを果たすのだが、1950年代にそれら解放、或いは抵抗運動の体験物語が多数書かれ、「ネオリアリズモ」は失速してゆく。いったいどのような光景がそこにあったのかは判らないが、初期ネオリアリズモに関わった「善意の」作家達は沈黙し、または自殺してしまう。彼はそうした風潮の中で自分自身の有様を見つめ直すこととなったようだ。そうした過去の出来事がこのような作品に象徴的に著されているのかもしれない。昨日も書いたある種の喪失感がここにも見られる。
ところで、この訳は「薔薇の名前」を訳した河島英昭氏ですね。今はじめて気がつきました。「薔薇の名前」の翻訳のおりに多くの哲学関係の人から「あの訳は間違っている。」「哲学的用語であるならば訳文がおかしい」などと批判をくらったらしい。私自身はそんな哲学のギョーカイ用語などよくわからんのだが、知識ある人々は引用文学でもある『薔薇の名前』のそれら原典を喚起するべく文章の訳が頓珍漢なものに映るらしい。オッカム専門家の清水哲郎氏も「訳語が変だよ」などと批判していた。清水師はアベラール様の訳なんぞしたのでもう気になって気になって仕方ないんだろうなぁ・・・・。かくして河島氏は沈黙する。誠実な方らしく、文庫等になる機会があるならばもう一度直したいと申し出ているそうだが、その性で文庫判が全然出なくなってしまったのかもしれない。この「薔薇の名前」の担当編集者が私の仕事の担当で、『薔薇の名前』の表紙に使用されたベアトゥス写本について教えてくれたのだ。あの怪しげなへんてこりんな絵はなんなんだ???その出典がわかった時、ロマネスクにハマる羽目となる。
まぁそれはともかく、専門家というのは極端な世界に生きているので絶対に赦せないことが多くなる。それは仕方がない。確かに専門家のいう通りなのではある。しかしそういうのは時に物事が停滞したり、疎まれたりする場面が生じせしめたりするものである。極端というのは生きるうえでの知恵とならないこともある。なぁなぁで済ましておく方がうまくいく。ただ、私自身は極端を生きようとする人のそれはまたそれで好きだったりもするので、純粋な半身であり、それぞれが個であった存在の善と悪の子爵が消失してしまうという光景もそれは哀しいかもなどと思うのであるよ。
で、その手の分裂物語というと、内田美奈子の「赤々丸」という漫画があったなぁ。
http://www.fukkan.com/sell/index.php3?mode=detail&i_no=46840759
最近、復刊されたらしい。しまった。欲しくなってしまった。