antonian2006-01-09

母のおせちが切れたので、またぞろ三食の献立に悩む日々であるよ。おせちってのは成程、楽する料理であるな。料理を作成する時間というのはさほどでもないがなにが大変かというと献立のバリエーションを考え出すのが大変である。正直面倒くさい。「アレを造ってくれ」と言われる方が楽である。とりあえず今日はそういうわけでいいかげん和食ばかりに飽きた父のために餃子である。明日は魚の煮付けで明後日は豚と大根を焚いたのにでもしてみるか。それ以外の惣菜はまぁその時考えよう。大量に小松菜の煮物造っちゃったし。明日のお昼はおじやにしようっと。・・という按配で毎日飯のこと考えているもんだから夢にまで見てしまうよ。やれやれ。
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で、殊能さんの話がでたが。彼の日記サイトがある。それを読むと毎日テレビを見て飯を食っている。作家なので引き篭もり生活である。しかもどこかの地方都市に住んでいるらしい。親近感を覚えるも、飯に対するこだわりがなんかすごいと思うよ。ちゃんと自分で造っているもんよ。素材にもこだわりがあるようだ。わたくしとは大違いである。
・・・が、実は私は食の素材等、メイキングに対し蘊蓄を垂れるヤツがどうも好きではない。なぜか判らんがイライラしてくる。んなことドーデもいい。旨けりゃいい。と思うので、その過程にあまり興味がない。だからアレやこれや滔々と蘊蓄を垂れられるといいかげんイライラする。これがたとえば別のオタク的蘊蓄だとさほどでもないので、いったいこの嫌悪における心理は我ながら不思議である。食えない架空の飯の話されても嬉しくないのだろうか。ウィンドーショッピングが嫌いなのと同じ。そういうことに関しては即物的なんだろうか。しかし食ってるときに蘊蓄垂れられるのも実はほんとは好きではない。なぜか食に関しては言葉に起き変えられるのが嫌いなのかもしれない。我ながらその生理現象が不思議であるよ。分析不可。そういうわけで他人の食に関する蘊蓄記述はたいていすっ飛ばす。料理本も読まない。料理をするときはまったく新しいことに挑戦する以外は概ね直感が多い。もしかしたら単に面倒くさがりやなだけなのだろう。食にこだわりはないが、まずい飯は嫌いだから少しこだわりを身につけたいものである。
というわけで、殊能さんの日記は「偉いなぁ」と思いながら読んでしまう。自分にない才能のある人は偉いといつも思うよ。