クリスマスの過ごし方

カトリック典礼歴では降誕祭(イエスの誕生日)の1ヶ月前から待降節に入る。この待降節からが新年となる。なもんでカトリック教会的には既に2006年か?とにかくこの待降節、信者達はイエスの誕生を待ち望むために斎戒沐浴するような時期である。心静かに祈りの時を持ち、主の誕生に思いを馳せる時期である。だから告解なども推奨される。過去を振り返り、自己と向き合い、神の御心にかなった生き様をしているのか反省したりする。よーするに懺悔ネタを顧みたりするわけだ。
しかしだ、世の中はそんなこととは裏腹にクリスマスというと祭りである。
ロイターの記者がクリスチャンでもないのにアジアでも祝ってるじゃねーか?どういうこった??と驚きの気持ちで記事を書いていたよ。

アジア流クリスマスの祝い方
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081135020636.html
アジアにおいてキリスト教徒は少数派だが、広大な大陸の端から端まで、人々はクリスマスをショッピング、
パーティ、ときにはロマンスの口実として楽しんでいる。

インドでも祝っているのかぁ。意外だった。「ロマンス」の代表格は日本であるようだ。というか日本以外は普通に商業主義的祭りな様だ。

ロイター記者が見た日本のクリスマス事情
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081134637519.html
世界のある場所では、クリスマスイブの日に、両親が子供にプレゼントを買うために雑踏の中でもみくちゃに
なり、子供が眠った後、オモチャを組み立てるのに悪戦苦闘しているかもしれない。しかし日本では、クリス
マスは子供たちのものであるのと同時に恋人たちのものでもある。

通常、祭り的には「子供達のため」みたいな代物のクリスマス。それが日本ではこんなになってしまう。といういささかの驚きとともに紹介されている。思えばバブル期にマスコミが煽ったせいだな。このお陰でクリスマスにおデートが出来ないのは寂しいという風潮が出来あがってしまった。スタンダール以上に恋愛症候群にかかってしまった我が国の民であるよ。
当然、真面目な人々はこのような風潮をよろしくないと思っているらしい。

集団サンタが大暴れ クリスマスの商業化に抗議
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081135022530.html
酒を飲んだサンタ40人が、中央オークランドの各所で店から盗みを行ったり警備員を攻撃したりして暴れ回った。
これはクリスマスの商業化に対する抗議運動だという。ニュージーランドヘラルド紙が日曜日に報じた。

我が国のクリスマスをみても商売の書き入れ時としか映らないわけで、信者としては「教会に来て祈れよ」と思わなくもないが、まぁクリスチャンじゃない人々にとっては祭りの方が重要だろう。だが「クリスチャン仲間でそんなふざけたことをしているなら赦せない」的な真面目な人々がサンタの格好をして暴れ回る抗議・・って、思い付きませんね。なんかニュージーランドの人は熱いようです。

クリスマスは環境に悪い!?
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081134701890.html
オーストラリア保護基金(ACF)が新たに発表した報告によると、クリスマスは環境に悪いそうだ。
「隠れたクリスマスのコスト」と題された報告では、クリスマス休暇の間に購入する本、服、アルコ
ール、電子機器、お菓子が環境に与える影響を試算している。

つまり資本主義は環境に悪いといいたいわけだな。
どうもオセアニアの民はクリスマス商業化に怒っているようだ。
私自身、どうもこういう世俗のお祭り騒ぎにはついていけない。家などを満艦飾に飾り立てツリー状態にしている家ツリーなどは横浜の我が実家の周りにも多数出没するが、おまいら馬鹿か?・・・などと思う。が、夜道が明るくなるので少し助かるけどね。馬鹿にしながら利用させていただいてるって後ろめたいな。
幸いにして島ではお約束程度にチカチカをお店が飾る程度で寧ろご家庭では正月飾りの方が重要だよ。横浜ではクリスマス前まではクリスマス商品が、それが済むといきなり正月用品が出現するが、島はもう正月用品を売ってます。

ところで、以前も書いたがヨーロッパでは近年まですごく地味であった。今でもアメリカやアジアのほうが派手だと思うけど、ちょこちょこと電飾を飾っている風景を見るようにはなった。しかしクリスマスの夜は家族とともに迎えるのがスタンダード。異邦人は招かれない限り一人で過ごすことになる。街を歩けばマッチ売りの少女な気持ちに浸れること請け合い。

教会は待降節辺りからプレゼピオを飾る。聖家族人形である。聖フランシスコがはじめたというがユリアヌス先生によるともっと昔からの伝承らしい。
以下参照↓
http://iulianus.exblog.jp/3925755/
で、アシジなどはででんとあのサンフランシスコ聖堂前などに等身大の聖家族人形を並べたりする。バチカンも並べているみたいだ。他にもあちこち野外に並べまくる。教会内にも設置してある処もある。各ご家庭でも並べている。これらは土地土地の風俗を取り入れ、聖家族なんかどうでもいい、とにかく街の光景を模したモノ、世評を取り入れたものとか色々あるらしいよ。マダムタッソーの蝋人形館みたいに。サッカーが好きな子はサッカー選手のフィギアでも並べているかもしれない。まぁようするに聖家族フィギア。聖家族と羊飼いと三人の博士を押さえておけばあとはただのフィギア。ゲームキャラ並べておいても誰も文句は言わないよ。

しかし教会内での装飾となるとそうもいかない。待降節でも降誕祭でも聖堂内は意外と地味である。それは聖堂がミサのために存在する場であるからであり、祈りのための場であるからだ。だから本来はプレゼピオも聖堂内に飾るのはおかしい。(・・と、ぐりちゃんが言っていたよ)ここではアドベントクランツと呼ばれる蝋燭が飾られる。4本の蝋燭。あるいは中央に一つを取り囲むようにした5本の蝋燭。待降節の日曜日が一つすぎると一つに蝋燭を灯す。4本全部が揃うと次はいよいよクリスマスである。

正しい聖家族人形(プレゼピオ)の並べ方の手順は、まずマリアとヨセフ、飼い葉桶、それに天使と馬や驢馬辺りを並べて置く。聖夜(24日から25日に日が変った瞬間)にイエスを飼い葉桶に置く。まぁそれ以前はお生まれになっていないんで、いる方がおかしい。そして年が明けての1月6日辺りの三王礼拝の日に三人の博士達を置く。博士達は生まれてからやって来たのでその前からいる方がおかしい。しかし我が国の教会は何故かこの日を過ぎるとプレゼピオを片づけてしまうので、この手順に従うと博士は三王礼拝の主日のみ出現するという非常にレア物な存在に成り下がってしまうのである。そのためあの壮麗な造る側としては一番面白く衣装を凝らせる博士達を見て貰えない。悲しいこととなってしまうのだよ。ヨーロッパはもちょっとだらだら置いてるみたいです。5月に目撃したこともあるぞ。

関連記事
○eirene
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20051219/p1
「イエスと馬小屋」
ルカ福音書には馬小屋という記述がないのに何故馬小屋なのだ?????というeireneさんの疑問。
おお。そういやそうです。なんで馬小屋になっちゃったんだ???
まぁ、こういうのは伝承の部類に入るのでしょう。黄金伝説みたいなもので。いつの間にか「こんな感じ〜〜」っていうのが周知の事実みたいになっていく。プレゼピオを馬小屋とともに飾る習慣。でもほんとは飼い葉桶に置いただけだろう。このように時代考証をはじめると多くの絵画、多くの現代にある習慣、全部だめだめですね。有名なルネッサンス期の絵画には馬小屋が描かれているのが多い。フリッポ・リッピの絵に「森」の中でイエスを地べたに置き祈っている光景の絵はあるけど。よく考えたらあの土地でこんな森はないよ。間違いだらけのルネッサンス。。。。でもまぁ聖伝承とはそういうモノです。
因みに初期ルネッサンスが誇るマザッチオの聖パウロ伝。これなんぞ町並みはイスラエルの地のハズなのに何処から見ても15世紀のフィレンツェの町並みである。人の服も当時の服装。
誤訳で有名なのはモーセのツノ。十戒を受けて戻ってきたモーセの顔は光り輝いていた。という処で、何故か「角」と訳してしまったヒエロニムス。そのお陰でミケランジェロモーセ像に角をはやしてしまった。まぁモーゼってなんとなく性格怖そうだし。違和感はないけど。

さらにeireneさんの考察が進んでいました。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20051221/p1
う〜ん。ギリシャ語では家畜小屋という意味も包括するようです。レイモンド・ブラウン神父の解説本から。
レイモンド・ブラウン神父のマタイ・ルカを用いた降誕物語の小論は女子パウロ会から小冊子ででています。この時期の黙想用にもお勧め。
○玉響のコロッセオ
http://iulianus.exblog.jp/3928663/
エスの誕生の光景についてルカ福音書から。ユリアヌス先生の講話。
聖ルカは画家の守護聖人である。ルカが聖母子を描いている光景などはよく北方フランドル絵画の題材として残っている。何故ルカがそうかというと、福音書に描かれた光景はあたかもその出来事を見て来たように書いているから。まるで佐藤賢一だな。特に降誕のシーンは天下一品である。画家達に数々のインスピレーションを与えたことは間違いない。

ユリアヌス先生は、ルカの記述を解説しながら、「よく飼い葉桶に寝かされたイエスを清貧、貧しさとともにあるなどという輩がおるが、そりゃいき過ぎの解釈である」などと申している。清貧ヲタが多数いそうなフランシスコ会にはそういう説教をしそうな輩がおそらくかなりいるんじゃないか?ブラウン神父も「ルカが興味を持っているのは、飼い葉桶の象徴性である」「清貧のしるしではなく」ここはイザヤ書の1章3節と結びつける個所だとのこと。(この辺りのことはeireneさんの2つ目の考察個所を参考にしてみて下さいですよ。
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ところで、このところ「完全の鑑」を読んでいるけど師父フランシスコの清貧ヲタぶりたるやもうただ者ではない。完全な歓び(自分がもっとも虐げられたものとなるときに完全な歓びがある)なものを完遂するためにはもう容赦がない。正直申し上げてついていけませんや。こんな人がそばにいたら激しく迷惑である。フランシスカンであることをやめたくなるよ。・・・が、この尋常じゃないからこそ聖なる人となった彼のいき様はやはりすごい。実はすごく単純なことを彼は目指している。「もっとも小さくなること」まったくシンプルなこのことを実生活で行うことの困難さ。シンプルだからこそより一層困難なのかもしれない。それを貫いたという点でやはり聖なる人なのだと思う。
自分の生活を顧みると余計なモノが多い。余計なことを抱え込んで悩んでいたりもする。自分に示された道に忠実であるという基本に立ち返るためにも彼の意志の強さを学びたいと思う今日この頃。「絵に向かう」というたった一つのことを行えばいいだけなんですがね。