信仰について

待降節である。心を静かに主の誕生を待ち望むひとときであるので、わたくしも霊的読書などを行おうと「完全の鑑」という本を選んだ。アシジの聖フランシスコ伝記である。
ここで上記のエントリに少し関わる話がでて来る。
聖フランシスコはなんせ清貧オタで、「会服や帯や下着の他は何ももつべきではない」を貫いていた。兄弟達にも要求する。ところが聖職者達はそういうわけにはいかない。説教とかしないといけないし勉強もしたい。というわけでたびたび師父のところに懇願にいくのだがケンもほほろに追い返されてしまう。

「世間には、神である主の愛のために知識なしに満足している人がいて、彼らは祝福されるが、それ以上に知識を得るのに汲々している人がいる」

・・・・・・耳が痛い言葉である。
フランシスコ会の人々にも心当たりがあり過ぎるようなのが一杯いるぞ。天井までの本棚にびっしり本を詰めて悦に入っているのとか、出先で重い本を買い漁ってるヤツとか・・師匠の引越の時、本棚を整理したさ。多かったさ。
ただフランシスコは知識を得るというのは「神への証しとしては結構であるが、自分達の見栄のために書物を使用するのはよくない」「研究のためではなく自分の飾りとしてはいけない」と考えていた。上記のはそれ故の厳しい言葉である。
南米のフォークロア的、或いは中世の人々の無知蒙昧にしか見えない信仰がある。他方で神学の現場にみるような高度な論理の世界が存在している。これらはどちらも偏ってはならず、同時に子供のような信仰をもつものを「無知蒙昧」、あるいは真摯に神を証しようと、研究しようとするものを「高慢」と決めつけるようなそういうことはあってはならないと思う。
私自身はつい文字に書かれたものに頼りがちで、へ理屈が先に立ち、黙想などにおいてすら霊的書物を読みたくなったりするが、例えばロマネスクの旅で出会った中世の人々の信仰の足跡、或いは現代も生きるサン・マリー・ド・ラメールになどにある黒マリアへのジプシーの人々の崇敬の痕跡に祈りを見いだすとき、自分には太刀打ち出来ないほどの深い信仰の証しを知ることとなる。「信仰と理性」の狭間をバランスをとりながら行き来することは大切なのだと。フランシスコのエピソードは時に極端な行動でもって私が陥るものをきずかせてくれる。
フランシスコは決して学のない人ではない。寧ろ聖書を暗記していたというし、つねに神のみ言葉を自分のものとして反芻していた。私自身は鳥の脳味噌なので聖書の言葉など情けないことに暗記もしていないが・・・自らの血肉となっていくみ言葉に触れる機会がある歓びは確かに甘美といってもいい、と思う事がある。フォークロア的な信仰の人もまた様々な祈りのツール(聖人や聖像、御絵、奇跡の物語)を通じて、体系的ではないだろうが、み言葉のかけらを拾い、祈っているのである。

完全の鑑―アシジの聖フランシスコ

完全の鑑―アシジの聖フランシスコ

↑黙想本。中世のだからなんとなく呑気。
面白いのがあったらそのうち紹介します。フランシスコってかなり変だし。