カトリックに対する誤解

カトリックに対するイメージがよく独り歩きをして誤解を受けていることが多い。ここで引用するのは御迷惑がかかると思うので引用はしないのですが、ある方のブログにラジオで心理学者が「カトリックの聖書読みは歴史的記録としての書物ではないという意識がまったくない」などと評されていたのを読んで腰を抜かした。「聖書で起きる荒唐無稽な光景とか、天使が降りてくるとか、天地が裂けるとかいうのをカトリック信者は歴史的事実として受け止めている。こんなこと信徒に教えてどうする???」な批判をしていたというのだが・・・・・何処の話だ???そんなこと教えられていたら今ごろ馬鹿らしくて信者なんかやってねーよ。・・・なひねくれ者の懐疑論者トマスな私はとにかくびっくりした。どうも妄想の中の「カトリック教会」があるらしい。このラジオの心理学者はカトリック教会史と神学史を一から勉強し直した方がよい。カトリックなやつの書いたモノが嫌ならアングリカンが誇る碩学マクグラス先生(彼はしかもエバンジェリカルな立場である)の書いたオックスフォードのキリスト教神学の入門教科書を一から勉強しやがれ。などとむかついたのである。まったくの無知きわまりない意見を普遍のように語り、公害のようにラジオから垂れ流すとは。どうも中世以前を軽視するあまり勉強不足ゆえのカトリックに対する馬鹿げた誤解が堂々とまかり通っているようだ。俗っぽい下らん司祭や教皇の悪行や異端審問における馬鹿な行為や発想とかは叩かれて当然だが、神学を批判するなら一から勉強しろ。すくなくともこの心理学者がいうところの「カトリックはこうである」と分類される中に入る様な人種にお目にかかったことは一度もない。第一「歴史とはなんぞや?」という処からはじまるだろうな。

さて、確かに「奇跡」的出来事をどう受け止めるかは我々にとって難しいところだ。聖書に書かれた神の神秘は深遠でありそれこそ「語り得ない」代物である。それゆえにこうであると結論付けられるものではなく、永遠に黙想し続けるにたる深みがある。それらは時に、逐語的に理解されることによって得られる慰めをもたらすだろうし、或いは形而上の哲学的な思索の対象となり得るし、批判的に、実証的に考察する、当時の人々の有様を鑑みてどのような隠喩として語られたのか?聖書解釈の方法は様々にある。これらは歴史の中でも様々にぶれる。アウグスチヌスなどは「文字通りの・肉の・歴史的な」「寓喩的・神秘的・霊的」意味があると捉える。つまり象徴として捉えることと、現実として捉えることの二つの狭間を行き来する。これらの読みは中世の主流でもあった。中世の聖書の読み方は「クワドリカ」つまり4つのアプローチを示す。「字義通りの」「寓喩的」「転義的もしくは道徳的」「神秘的」・・と分類されるそうだよ(@マクグラス
「とらえどころのない神」をどう捉えていくのか?これらはつねに多くの人が祈りの中で考えていく目的でもあるわけで。観想のうちに多くの人が聖書と対峙し祈りのうちに見いだすことであっただろう。神と自己との関係性を相対化し祈るというのは当り前のことでもある。
雅歌など、逐語的に読むなら、ただのラブレターだ。ナニ発情してるんだ?というような頬も赤らむような言葉が書かれているが、サン・ベルナールはなんとこれを「寓意的」に捉え、ながい講釈本を書いてしまった。霊的に聖書を受け止めるというのはどういうことなのか?といった例である。
スコラ或いは人文主義の時代となると資料読み的な方法論がでて来る。特に人文主義は最終的にルターやエラスムスを生み出す。おそらく先の心理学者はカトリックの現場は「クワドリカ」で止まっている。などという思いはあるかもしれないが、今どきこのご時世に「批判的に読まない」御仁ばかりと言うことはありえない。特に聖職者レベルでは「批判的に読む」という思考がどこかにあったりするだろう。それがいき過ぎて復活が信じられんなどと言い出す奴までいる。ブルトマンなどに一応は目を通していると思うが。まぁ、ある司祭によると「聖書を読めない(理解しない)」司祭が多い。と言うそうだから、読めない馬鹿も多いかもしれんが、そういう人は「歴史的に理解する云々」以前の話でなぁ。
ところで「逐語的に読む」というとアメリカなどにみられる根本主義(ファンダメンタル)が挙げられる。彼らはまさに逐語的に、歴史事実として聖書を理解する。創造論というハイパーな科学まで産み出した。私自身はこれを採択はしないが、彼らがそこに行きついた背景には奇跡すら否定してしまうリベラルの自由主義的な神学に対する批判から、再び霊的な信仰を取り戻したいという切実な思いがあったからだと推察する。それゆえにこれらを批判することは出来ない。
また別な個所で南米の信仰について書かれていたがカトリックは行動するがための信仰で、「自分を振り返り、聖書を何度も読み返し、誘惑に苦しみ、自分自身に問い続けるということがあまりない」とのご指摘を受けた。う〜〜〜ン。南米ねぇ。汗)確かにあそこは熱苦しいや・・・かと思うと解放の神学なんてのがあるしなぁ・・・そう思われても無理はない・・・が、これもかなり誤解があるようなので、「違うでする〜〜〜〜〜」「後者の人もいるでする〜〜〜〜」と付け加えておこう。むしろ私の友人達の範囲では「悪魔」「サタン」などとマジに口にする輩は激しく電波扱いなんだが。いや一人いるか・・・汗。信者さんでラテン系みたいな信仰の人。深いんですけどね。寧ろ後者の様な「聖書を読み返し自分自身に問い続ける信仰」の人。いつも悩んでいます。まぁ組織的にもエクソシストなんかいるし、誤解されやすいかも。これはカトリック教会の一部に見られる現象を拡大解釈して一般化しているようであるが、カトリック教会ってのはでか過ぎてなぁ・・・色々いるわけさ。上記の様なファンダメンタルも、ブルトマンみたいな奴も、(不可知論者までいた・・・汗)行動するのが信仰だ!などという奴も、ただただ内面の神と出会う為に祈り続ける奴も、「悪魔が〜〜〜」などというデス・ピサロも、「今どき悪魔なんてなぁ・・ゲームキャラだろ?」なんてのも、聖書オタクも、聖伝オタクも、なんでもありな処である。ある意味放置プレイ。(聖公会もその幅は激しくすごい)
まぁ、放置されている幅が広いので誤解を受ける側面は多いと思う。特に南米の一部の熱い方々(グアダルーペってなんだよ?)には私などはついていけませんが、あの土地、あの民族固有の伝統もあるだろうことで、それを批判することも出来ない。それは一つの信仰の側面でもある。フォークロアというモノをわたしは否定しない。自分自身の価値もまた絶対ではないと思うからなのだが。

キリスト教神学入門

キリスト教神学入門

マクグラス先生の本。座右の書です。西方キリスト教の神学を客観的に紹介している。すぐれ物。
オックスフォードでも使われている教科書なので、章の最後に問題が出題されていたりする。
実は随分昔にユリアヌス先生から紹介されたんで、だまされたと思って高いけど買ってみた本。
コレと平凡社の中世思想研の「原典集成」「神秘思想史」やらいう分厚いのと、平凡社ライブラリーの「キリスト教史」があると勉強になる・・と思う。「思う」というのは実践してないから。。

マクグラス先生のは惜しむらくは東方関連が弱い・・・・。

ぐりちゃんが和田幹男神父のことを紹介して下さったので。和田神父の次の言葉とサイトを紹介しておきますね。

わたしたちの祈りとして
 人生は戦い。無防備な人にも武器がある。それは盾としての神。 それゆえ、この神との、「わたしとあなた」の対話は大切。 そのために今この詩編を学ぼうとしているように、「学ぶこと」も大切。 人生は戦いで、その武器は「学びと祈り」だと、エラスムスは言った。 学びながら祈ること、祈りながら学ぶこと。聖書の学びも、ただ知識だけでは足りない。 祈りとなる聖書の学びでありたい。それでは祈りとは何か。 「神に心を上げること」とトマス・アクナスは言った。これは易しいこと。しかし、奥は深い。
 キリスト教徒にとって、思いだされるのは、イエスが敵に囲まれ、孤独で十字架に架けられ、断末魔の苦しみの中でほとんど絶望しながらも、 最終的には「父」である神なる主への信頼を失われなかったこと:マタイ27:43参照。 そのイエスは「主」となって、今も、わたしたちと共にいる。 この詩編で「主よ」と祈るとき、わたしたちはこの主イエスに向かって祈る。 これがユダヤ教徒としてではなく、キリスト教徒としての詩編の祈り。 この詩編は、つぎの詩編4と共に読めば、その意味がいっそう明らかになる。
 時課典礼では、第1週日曜日読書課の第3詩編
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/PS_03.html

和田幹男神父 サイト
http://www.mikio.wada.catholic.ne.jp/


詩編解説の一番はじめにまとめとして、祈りとして和田神父が記した言葉。「信仰と理性」この二つは大切でありどちらに偏り過ぎてもいけない。トマス・アクイナスはその信仰と理性の狭間の中で苦しみながらあの神学大全をものにし、しかしそれらを「藁クズ」といった。かの偉大な学者も祈りの人であった。