祈りの文のリズム感

最近の私は物覚えが悪い。ミサの式文の「信仰告白」が「使徒信条(クレド)」に代わったのはよいが憶えられない。アヴェマリアの口語訳が憶えられない。主の祈りも昔の言葉が混じってしまう。何度も唱えるのに憶えられないってのはどういうこった???と言うわけで寝る前に祈るのは文語の祈りであるよ。

そもそも日本語もなんでもそうだけど「言葉」はリズム感というものが重要でこれが悪いと頭に入らない。イタリア語が聞き易く頭に入り易いのはリズム感がいいからだと思うよ。流石カンターレの国である。文章が韻を踏む。韻を踏まない文章はイタリアでは違和感を感じるものらしいよ。だから男性名詞女性名詞、複数形などと悩まずとも韻を踏んでないと気持ち悪くて自ずと直るなどとイタリア人が言っていた。不協和音に敏感なようだ。ダンテの神曲など韻踏み大会で、わたくしはイタリア語なんぞには文盲ですがあの文字列を見ただけで「美しいかも」などと思っちゃいます。内容把握していないのに「美しい」ってのは変だけどね。ほっといてくれ。
文語はなんとなくリズムがよい。漢文なんかもリズム感がいい。あれは韻を踏んでいるから。しかも表意文字。。というか表形様文字というか・・・なので文字列が美しい。文字列を見ただけで情景が映像のごとく浮かぶ。中国人ってのはすごいよ。日本語の場合は音が似ているものが並ぶというより、つまり語尾は「です」とか「ます」とか「だ」とかなもんで韻を踏むってのはなんか違う。俳句のように5.7.5に代表されるような文字列の長さのリズムが重要で、たとえばこういう文章などもリズム感の悪い文章というのは読み辛い。
むかしネット上でかなり長い文章を書く人がいて時々面白い形容詞を使っていた。他人の文章をして「牛の涎のようなだらだらとした文章」とか。そういうのが面白いので読んでいたが、彼の文章こそ実はリズム感という点では牛の涎のようにだらだらとして読みづらかった。まだパソ通の時代で、長い文章でやりとりする人は多かったが、とにかく彼の場合、びっしりと蟻の入り込む隙間のないほどの文字列を凝縮し、しかも漢字が多いので見た感じ黒々としていた。ただ内容が充実しているので一生懸命読んだけど。
文語は漢文に準拠しているのかどうか、国文学とか詳しくないし文法の問題とかもよく判んないけどとにかくリズム感がよく、益荒男的な潔い調子が頭に入り易いね。口語というのはどうしてこう憶えづらいかというと、やはりリズムが変則的だからなんだろうなぁ。
文章やる人は音楽的センスを磨いた方がいいと思う。
・・・・・・というわけで昨晩の就寝前の祈りも文語でやった。
クレド日本キリスト教団が使っている「我信ず」で冒頭がはじまることで韻を踏むようなあっちのほうが憶えやすいよ。「〜〜〜を信じます」の羅列じゃぁ、しまりがねーや。