萌えネタとしての独身制

ま・ここっとさんとコメント欄でルターが結婚した話とか、修道女が還俗する話しとかになったので、少しうにゃうにゃ考察してみた。
カトリックの神父は結婚してはならない。修道者は当然そういう道を自ら選ぶ人なわけでこれまた結婚しないことを誓っている。結婚してもいい修道者というのは在俗の第三会員とか在世会とかの身分となる。そしてそういう人は修道者とは言わない。「聖域の人」というとカトリックのヒエラルキア(身分の階級、司教、司祭、助祭がいる)で助祭から上の人と結婚しないことを誓った修道者(出家者)となるわけです。助祭は結婚している人もなれる代わりに司祭にはなれないので、結婚した人は終身助祭となるですね。正教会の場合は司教から上が結婚していない。しかし司祭に叙階された時点で新たに結婚することは出来なくなるという制約がある。プロテスタントの場合は結婚していたりする。
このカトリックの司祭の独身ネタはよく批判がでる代物で、アメリカで起きた最大のスキャンダル「幼児性愛者司祭の悪行」の原因は司祭が結婚できないことにあるなどといわれているが、実のところ結婚できるような我が国の教師の犯罪とかみていると的外れな批判だよなとかは思うよ。立場を利用しての悪行だもので赦せんことにはかわりはないが、犯罪犯す奴は結婚していても犯すのは犯罪の記録をみての通り。
しかしだ。なんでまたしつこく独身制を守ってきたのか?修道者は何故独身でなくてはならないのか?とか或いは禁欲ってどうよ?とか色々疑問を持つ人も出てきたりする。
元修道女で修道会をやめ、修道会のあり方の批判の書を書いたカレン・アームストロングの著作「狭き門を通って」を読んでいて激しい違和感に襲われたのは、結局「修道」というものをこの人は何か勘違いしているんじゃねーの?ということに尽きた。俗人の生き方の中でも充分神と出会えるはずなので、修道というのはそれとはまた違う道を自ら覚悟して選ぶということで、それが出来なかった彼女は俗の世界ににおいて招かれた人間であったに過ぎず、修道会の有様を呪詛するなど、誓約を完遂出来なかった言いわけに過ぎない。馬鹿か?と思ったよ。こういうのは聖域をとりわけ特別視するから生じる馬鹿の発想だとか思いましたよ。はじめから在俗会で頑張ればいいのによ。ダメならダメでもといた処にケチなどつけずに在俗で頑張ればいいだろうよ。とか私などは思うわけです。修道の途中で修道という世界に招かれていなかったことに気付く人も多いだろうし、それはその人と神のとの問題であって他人が批判するこっちゃないのと同様、修道会という世界が特別な状況の中で長い時代の霊性を守り続けてきたことを批判するこっちゃないなどと思うのです。そもそも出家というのは東洋にも見られるものですしねぇ。
修道会については以上のように思ったりもするが、教区司祭の独身性というものを同じような考え方で論じることは出来ないとは思ってはいる。あと近代以前は口減らしの為に修道会にぶち込まれた気の毒な人々もたくさんいたので歴史の中の人を一概に批判も出来ない。(EX・フィリッポ・リッピとかね)
ただ、集客という下世話な視点で考えると独身性というのはかなり有効であると思うのだな。なんせ「萌え」に通じるからなぁ。シスターものとか巫女さんものが殿方の「萌え」の対象となるように、司祭の独身というのも『モーリス(古)』なんぞを見てヤオイネタにハァハァする女性にはかなりアピールするよなぁ。宗教は女性で持っている側面って大きいし、旦那に相手にされない妻とか、結婚できない淋しい女性(わたくしもか?)とかのニーズにも応えるですよ。とか不謹慎な効用を考えてしまいますが。
で、司祭あるいはカリスマのある修道者は巧みにこのような萌え女性を操って旨い汁をすするという按配。ぐりちゃんによるとヒエロニムスとかもそういうパトロン女性を連れ歩いていたそうだ。ナニが隠修士か?看板に偽りありやぞ。聖フランシスコも精神的なパートナーである女性聖キアラ以外に、ジャコマという未亡人がパトロネージにいた。二股かけてやがるぜ。こいつってば・・・・。修道女なども特定の司祭の指導の元、霊性をはぐくんできた人なども多いし。まぁ男女というのは助け手としてお互いをお作りになったのは神様だからしょうがないのか。
で、ルターさん。
彼などはもうバリバリの修道士というか考え方だけ見ると正統なカトリック的な寧ろ保守に近いような思考の人なんだけど、アウグスチノ会をやめてかなり経ってのち、やはり修道会をやめたシスターと結婚したそうだ。その前から独身性というのに疑問を持っていたらしく修道会をやめた人などに結婚を勧めていたらしい。彼自身はしばらく独身だったがそのうち結婚して子供ももうける。もしかしたら「そういうおまえはどうなんだ?」などと言われたのかもしれないなぁ。
独身制というのは聖書(パウロ)に由来するものであるが、かといって推奨レベルであって戒律的なものではない。しかしこの推奨レベルでいうならば上記のごとき不謹慎なネタではなく、例えば独身なら24時間仕事に専念出来る。身軽である。聖職者売買の禁止に繋がる。世襲制の悪しき側面から解放される。教会としては食いぶちが少ないので楽。などの理由もあるだろう。聖書に書かれた理由がまさにそれ(身軽)だったりするし。ただ、こう世俗をとりまく状況が、司祭に対してきちんとしたことを求める(飯炊き女=実は事実上の妻。を見て見ぬふりが出来ないとか悪所通いを黙認出来ないなどといった)社会では独身制というものも云々されてしまうのも仕方ないのかも。