レオナルド・ボフ

カトリック神学の中に「解放の神学」というのがあって、イエズス会のゲティエレスとかいう人なんかが有名ですが南米から出てきた実践的な政治的色合いの強い神学で、南米という貧富の差の激し過ぎるような土壌という混迷した状況から必然的に生じた信仰の高まりを神学的に考察してみたっていう代物らしいですよ。その中にブラジルのレオナルド・ボフという人がいてこの人の「教会権力とカリスマがどうたら」とかいう本を以前読みかけてやめてしまっておりますが、まぁ、この人はフランシスコ会の神父だったんですね。
わたくしは政治と宗教の棲み分けというかそういうのをきちんとしておきたいと思ったりするのでこの手の社会運動系はどうも苦手ですし、結局のところ実践としては貧者の側に立つ=そうでない人々との対立構造を浮き彫りにするということからよほど慎重でないと、「富めるものはスポイルされるべき。」とか「倒されるべき」なんて幼稚な馬鹿まででて来るので難しい代物だとか警戒してしまいます。政治思想ならそれでいいのだけど万民の救いを説く教会の場合はそれは違うだろうとも思うわけで。しかし理論として純粋に考えるならキリスト教のベースにはそういう発想もあるので否定するのはコレまた違う・・・などと色々と考えてしまうシロモノでございます。
そういうわけで、ボフさん。彼についての話が先日酒の席で出た。なんでも現在、ボフさんは神父だったのをやめて、奥さんを貰いあまつさえ豪邸に住んでいるらしい・「解放の神学」で有名になったのでお金持ちになったらしいよ。師匠は同じフランシスカンとしてどうもそれが赦せんらしいので批判していた。昨日のエントリではないが「覚悟の足りない馬鹿」ということか。
ただ、「理論というのはそれが発せられた時点で、或いはかかれた時点で独り歩きするものだと思うのでボフさんの私的な人生とその理論とをごっちゃにして評するのはおかしいんと違いますか?」などと反論しておいた。理論にはその理論の土壌で批判すべきであって、人の私生活など関係ないでございます。
しかし、神父として叙階されたものが、尚且つフランシスカンとして生きようと誓願を立てたものが、「信者でいる方が自由に発言出来ていいよん」とか言っちゃってたり、豪邸を建てて奥さんもらってゴージャズな生活をしていたりするようなのを認めたくないという師匠の、そのムカツキの根底にある覚悟なんぞを思うと、それはそれで判らないでもない。いや寧ろ当然の批判ではある。そういうわけで昨日の話なんかも出てきたんですけどね。
ただ非常に実践的な神学であるがゆえに提唱者が非実践的な状況にあるのは説得力に欠けると思わないか?(或いは机上の空論にすぎない。人間本性を無視した理論に過ぎない。ということか)という辺りの批判については・・う〜ん。それも言えるかもしれないけどね。などとちょいと思いました。師匠はとにかく気に入らないみたいでした。
同じ修道司祭だけに色々考えてしまうんだろうなぁ。
フランシスカンの「無所有」の生き方も「所有する存在」が存在していることによって成立していたりする。その辺り押さえておかないとただの理想論馬鹿になってしまうとかもあるな。