カトリックの出版物

カトリックギョーカイはマイナーなので出版物といってもおよそ売れる本がでるわけではない。神学の翻訳本などは必要な人には大変必要なのだが、正直世間的には「なんだこりゃ?」な代物だろうし、信者達でも神学などに興味のあるのは一握りだ。だから注文などすると1970年代の初版本が来たりするよ。すごいよ。長い年月で増刷なしだぜ。(もっとも学術の世界の出版物も似たようなものだけど)
ラッツィンガー教皇になったので師匠濱ちゃんの訳した「典礼の精神」は増刷となった。出版関係というのは印税収入なので増刷となると著者や訳者にとっては嬉しい限りである・・・はずなのだが、師匠濱ちゃんには一文も入らなかったらしい。(更に初版の時も金銭ではなく本を百冊程度貰ったという現物支給だったそうだよ)しかも増刷の連絡も全然来なかったらしい。ぎょーかいのなぁなぁ体質なのか。それでいいのか?カトリック出版ぎょーかい。師匠は「いつもうちの修道会の売れない本を出してくれるから仕方ないと思う」などと達観しているけど、たしかに売れない本ばかり出版させられて気の毒なのは判るし、金銭についてはとやかくいうのは部外者としてははっきり批判することは出来ないけど、せめて増刷の連絡くらいしてあげた方がいいと思うよ。というかそれが世の中の常識ってものだと思われ。翻訳者の権利というものが存在するのだし。
そもそもラッツィンガーの本など売れるわけがないとはなから決めてかかっていたらしく、出版するときもあれこれ言われたらしい。内容を読んだ人なら判るが、日本で出している下らない典礼盆よりずっと為になる。どうも商品価値すら見抜けないとか身内のは出すとか、およそ他所のぎょーかいでは通用しないような薄っぺらい内容だがなぜか信者に人気のある神父の、読むだけ無駄な出版物などや、意味不明の祈りの本とか、タイトル見ただけで中身が判るような内容の薄い本は積極的に出すくせに、一級の資料となりそうな物にはケチをつける体質がある気がするぞ。出版素人なうえに身内体質。開かれた教会を目指すならその身内体質から何とかしろ。
とかむかついた一件であった。
他にも色々な内容が非常に豊かなものが訳されずにあるんだろうな。
概ね、資料となりそうな一級の出版物は平凡社とか、講談社(学術文庫系)とか、教文館とか、岩波とか他所から出ているって辺りも悲しいよねぇ。
因みに平凡社から出た五木さんとM司教の本に少々興味があったんだけど周りで不評。五木さんはいいとして、M司教のもの言いはかなり不評である。読んでいないので恐ろしくて更に読めなくなった。