覚悟ということ

師匠と飲んでいて、出た話だけど、昨今は覚悟のない聖職者が多い。とか言う話。
カトリックという組織は自称2000年くらい続いていることになっている。ローマ・カトリックは異端なので認めない人とか、ローマは勝手に出ていったのでそこからの歴史だという人もいるけど一応イエスの弟子のペテロから続いていることになっているよ。
その歴史の中には相当どーしょもない行いとかしていたりして批判もされる。宗教そのものが批判されたりしている我が国でも、キリスト教というと、悪行の権化とか、カトリックなんか権力をもって他の宗教を弾圧するような怖い宗教とか、原理主義的にごりごりとか、律法的でどうしようもなく、聖職者に異常な権限があるなどと思われている場合も多い。実際はそうでもなかったりするけど。・・・というか寧ろいい加減過ぎて、強面で保守な教皇が就任してがっかりしている人(聖職、信徒問わず)とか、そういう教皇が口を酸っぱく意見しても聞きやしないのとか、ミサさぼり甚だしいのとか、正直学級崩壊状態といっても過言ではないくらいいい加減である。そんなトンでもな状態なのでそろそろラッツィみたいに「正統」な教義を理論立てて説く人がいないとどんどん学級崩壊しちゃうだろうよ。どうせ言うこと聴かないんだから。それにリベラルがいき過ぎて、今度はイスラム原理主義者と対立したりしているような世の中では、寧ろラッツィのような宗教的に多少保守に見える姿勢のものが既に合理主義化してしまっっている先進国と原理化するイスラムとの橋渡しに丁度いいと思われなのですよ。
閑話休題。とにかく「カトリック」はあまり評判はよくない。よくないのでカトリックと名乗るのが嫌としか思えない卑屈な意見を言うのとか世俗に迎合するような意見を言うのとかまでいる。特に我が国ではプロテスタント諸派におもねるような態度のものも多く、逆に原理主義的な福音派の人からその世俗におもねるような態度を批判されていたりする。まぁ当然だろうなぁ。「筋を通せ」という彼らのほうが寧ろ潔いよ。
ところで、師匠濱ちゃんがいうには「決して口にすることの出来ない一言がある」という。それがなにかは聞かなかったんだけど、カトリックの聖職者であるがゆえに「言うわけにはいかないこと」それを言ってしまうと「自分自身が守ってきたものが崩壊する」という本人のアイディンティティに関わるようなものがあるらしい。「カトリックの聖職者」である為の覚悟と言うのがあるらしいよ。それは教義批判とかでもなくもっと根源的ななにかみたいだけど。
彼ら聖職者と話していると時々そういうものを感じるときがある。ローマにいる人々は年齢も近いのとか、考え方が共感出来るのとか、なんとなく友達感覚で話していたりするんだけど、やはり時おり見せる態度とか、話の背景に見える価値観とかに「聖なる場に覚悟した人」の意識を感じるときがある。神に奉献された身分のものがもつ固有の空気というか。彼らは時に平気で教会を批判するときもあるし、とりわけ護教的でもないのだが、それでも感覚的な部分とかにそういう奉献された人の顔を見せるときがある。それが聖域の人ってことなんだと思っている。
そもそも司祭というのは「叙階される」もので「就任する」ものではない。神と彼個人の神からの一方的な烙印というかなにかを受けるわけで、一生涯消すことの出来ない入れ墨みたいに、死ぬまでそういう存在である。職業としてあるわけではない。その辺りに違いが生じてくるんじゃないか?と思うんですね。
だから(評判も悪かったりする)カトリックと切り離せなくなる自分を嫌いになってしまうと大変ではあるとは思うものの・・・たとえば某司教などはその手の自覚がなさ過ぎるというか、寧ろそれが嫌なのか、足掻いているのを目の当たりに見せるので共感する人もいるようだけど、構図としては甘えるのも大概にしろとか言われても仕方ないよ。少なくとも師匠濱ちゃん的には背負うものを覚悟したからそういうことは「いえない一言」の一つにはいるんだと思う。だからわたくしもそれがナニかは聞かなかったけど。で、そういうことの自覚というか覚悟が出来ないとほんとに苦しんでしまうんだと思う。その苦しむ人も大変だと思うけど、黙って貫いた人はもっとすごいと思うよ。
しかし、聖域だけではなく多くの場面でそういう覚悟って我々もまたしているとは思う。なにかにプロフェッショナルであったりすることとか、或いは結婚するという行為ですらそういうのはあると思う。(だからカトリックではそれが秘跡となる)
昨今天皇家の問題とかがあちこちで話されているけど、天皇家として生きる覚悟というのはすざまじいなぁと思う事がある。これは枇杷さんが以下のブログで指摘していたことで・・・
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/10447438.html
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/10494564.html
コメント欄も含めて読んだ中で色々考えさせられましたがその中で秋篠宮殿下がおっしゃった言葉が紹介されていて・・・

私たち皇族は,公的ないろいろな仕事をしていくのは当然なことであると思うのですけれども,あくまでも私個人としては,自分のための公務は作らない。つまり自分がしたいことはいろいろあるわけですけれども,それが公務かどうかはまた別ですね。私は公務というものはかなり受け身的なものではないかなと。こういう行事があるから出席してほしいという依頼を受けて,それでこちらもそれが非常に意義のあることであればそれを受けてその務めをする。私自身はそういうふうに考えて今までずっと来ています。

と言った時の覚悟について考えさせられましたですよ。彼らにも「言ってはいけない一言」があるんだなぁとか。
聖域の人ってのは大変だと改めて思ったり。単なる職業じゃないという身分というものの覚悟っていうものが存在して、それが聖域を構築していたりするんですね。
ラッツィは評判悪くて気の毒だけど、彼もまた自身の立場というものを覚悟している人の一人だと思う。だから多くの批判すら覚悟していきてきた人だけにわたくしは尊敬しますよ。その部分において。またその立場ゆえの誠実さに於いて。それは世間的にはいけずと映るかもしれない場面もあるだろうが、迎合してはならない一線があるんだろうなぁとか思うわけです。各論において賛同するか批判するかはまた別だけど。