宗教とジェンダー

uumin3さんがご紹介していらしたこの記事

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051105#p2
大峰山での愚行
 この共同の記事「女人禁制の大峰登山目指す」が気になっておりました。

女人禁制を守る修験道の根本道場、奈良県天川村大峰山(山上ケ岳)
の開放を求める市民らが2日、心と体の性が一致しない性同一性障害の男女
らと3日に大峰山登山を試みる、と発表した。呼び掛け人の1人で立命館大非
常勤講師の伊田広行さんは「男女の性の境界があいまいな現代における『女
人』とは何かを問題提起し開放に向けた議論を深めるきっかけに」と話して
いる。約30人が参加する。

[共同通信社:2005年11月02日 21時30分]
女人禁制の大峰山で女性ら3人が登山強行 

 女人禁制が1300年間続く修験道の聖地、奈良県天川村大峰山への登山
を目指すと公表していた性同一性障害を持つ人ら35人のグループが3日、現
地を訪れた。女性の立ち入りを禁じる結界門(けっかいもん)の手前で地元住
民約100人と議論した結果、改めて話し合いの場を設けることで合意して解
散したが、その後にメンバーの女性ら3人が登山を強行した。 

 住民側が結界門前で待ち構える中、午前9時50分ごろにグループが到着。
地元・洞川(どろがわ)地区の桝谷源逸(げんいち)区長(59)は「先人か
ら受け継いだ伝統や生活がある。地元の心情を理解してほしい」と登山中止を
求めた。グループ側は今後も話し合いを続けてほしいと要望した。しかし、午
後0時半ごろ、3人が結界門をくぐって山に入った。その1人は「問題提起を
したかった」と説明した。 
(2005年11月04日 asahi.com

以前に「女人を避ける日本の宗教儀礼」の背後に、むしろその力を畏れる心があるという柳田の説(過去日記)を紹介したこともありましたが、私は女性差別とかいう次元とこの宗教的禁忌の次元は明らかに違っていると考えます。

 無理やり大峰に登ろうと計画した方々は、自分の価値観の押し付けを図っているとしか思えませんでした。しかも、話し合いという決着が付きかけたそこで抜け駆けで登ってしまう人まででたとは…。

 これらの人には他者理解というものがおそらくできないでしょう。どんなに偉そうなことを言っても、その言葉は空しいだけのように思えます。この人たちの主張が書かれているところを見つけられた方がいらしたら、ぜひご一報を。

どうもわたくしはこの手のジェンダーに出くわすと頭が痛くなる。というのも互いの価値があまりにも違う。つまり前提となるものを共有していないもの同士のぶつかり合いは話し合ってどうなるものではないし、他方の理屈で他方を破壊するなら、その破壊された側の価値は取り返しがつかないことになる場合もある。

この手の価値のすれ違いは例えばイスラムとフランスの法や暗黙のルールとがぶつかり合って生じた別の悲劇にも通じるし、またクリスチャンの世界にも多く見られる教義の論争などにも散見できる。
例えば、プロテスタントの方がよくカトリックのマリア崇敬や、救いのあり方、告解のシステムなどを批判する。これらは前提となるものが違うために生じるものだ。プロテスタントの場合「聖書のみ」という原典主義を大切にする。しかしカトリック正教会などは「聖伝承」というものをそれに加え大切に考える。ある正教会の方ははっきりと「聖書は聖伝の一つだ」と言い切っていた。(この点、カトリックより正教会の人のほうがはっきりしていて潔い)
聖伝とは何か?それは教会が伝えてきた伝統、多くの人が大切にしてきた聖書以外に伝えてきたもろもろのことなどであるが、プロテスタント宗教改革のとき「聖書」という原点に返ろうということで聖伝をある意味放棄した。だから彼らの理屈では「マリア崇敬」も「告解」も教会のヒエラルキアも、全てあとから来たもの故に聖書に根拠がないとして批判するのは当然だろう。しかしカトリックの場合伝統的な聖伝を大切にするのでそれを批判されても困るということになる。こうして永遠に平行線の議論が生じることが起きる。プロテスタントの人は彼らの思考手段でカトリックを批判するから当然彼らの理屈は正しくなるが、カトリックカトリックの価値で反論するわけでこちらもカトリックの伝統的な思考から正しいわけで、この二者の間で一致するなどまずありえないのである。「聖書のみ」の立場に立て。いや聖伝を認めろ。という論争にまで発展するだけである。
こうした現象は今カトリック内部でも起きている。例えば女性司祭の問題などに見られるのだが、これらの根拠はこの「聖伝」ではなく原点主義に立っている。たしかに聖書という原点に返れば、女性司祭についての否定的な記述は見られないし、助祭に至ってはいたのではないか?とされる記述もあるという。しかし正教会にもカトリック教会も女性を採択してこなかった。単なる慣習や聖伝的な風習としてこれらは女性の入り込まない禁域として存在してきた。おそらくこの「聖伝」は明快な理由をもたないだろう。司祭を修道者の延長として位置づけたところからはじまっただろうこのタブーは、ジェンダー理論の前にはあまりにも理屈の存在しない、ただ「長く続いた伝統がある」というそれだけの根拠しかないだろう。
ただ。。この原典主義的な、間の伝統をすっ飛ばす思考は第2バチカン以降顕著になってきたのだが、あらゆる場に於いて遅れてきた宗教改革的な様相を呈し始めている。プロテスタントはこの改革を500年かけて築き上げた。そこにはものすごい苦悩と紆余曲折の歴史もある。今更カトリックがその後追いをしてどうする?という気もするし、寧ろ、例えばわたくしがそういう方向を目指すなら既にそれを完成している方法論を持ったプロテスタント教会に移籍すると思う。固有の伝統を破壊するぐらいならそうするだろう。(本当に例えば女性司祭という改革が必要ならそれはおそらく別な形で示されるべきなんじゃないかと思う。切実な必然がそういうものを生み出すか、あるいは多くの人の価値が塗り替えられるようなほどのカリスマが存在するか、なにかジェンダー的な屁理屈ではないもので誕生するだろう。その時が来るならそれはそれで旅し続ける教会の姿として皆が受け入れるなにかが起きるだろうと思うのですよ。)
全てが同じでなくてはならない。全てが同じ価値を共有せねばならないという無個性を要求する思想にはどうも私は一種の権力、あるいは一方的な「正義」を感じて拒絶観を示したくなる。
女性の優位というのは曲者だ。多くの場合男性への罵倒ではじまる場合も多く、男性を排除し、嫌悪する思考にぶつかる場合も多い。性差など感じていなければそんな言葉などでてこないだろうが、かなり個人的な抑圧が理由の場合も多い。例えば近しいフェミニズム的な思考の友人の場合、大学時代は女性が少なかった性もありかなりちやほやされたという。わたくしの大学ではありえない光景だった。わたくしなどは女性扱いなど受けたことがない。いつもワリカンで、皆で雑魚寝したりしてもナニも起きない。常に対等だった。しかし友人はちやほやされ大切にされる反面、男の世界に入り込めなかったという。女性ということでスポイルされたらしくまた彼女もその時はそれを受け入れていたようだ。しかしその位置関係に不満が生じ始めたとき、フェミニズムへと向かっていった。彼女は殿方と話すときにいつも緊張する。常に相手について男と女と意識しすぎる傾向にあるように感じる。それを指摘しても判らないようだ。支配されることを極端に恐れる。(おそらく上記の大学時代のトラウマが原因なようだ。)誰も支配などしないのであるがそう思い込む。だからフェミニズムに拘ってしまう。理論武装すると安心するのかもしれない。
こうなると共通の認識を持つのも難しい。ひじょうに個人的な生理的レベルが影響することなので、ジェンダーというのは実は難しい問題なのだなぁとは思う。ほんとうは彼女の抱える問題は彼女自身が克服するしかないわけだし。(わたくしは「自信をもっともっていいと思うよ。」といつも思いながら横目で見ているしかないだけだ)

山の問題も、問題提議する側の理由はかなり個人的な問題から発しているようにも思える。本人にとっては切実な問題でもあるのだろうが、他者に甘えて克服しようとする構造、あるいは他者の大切な価値を踏みにじって克服するようなそういう意識も透けて見える気がするので賛同できない。そうではない方法論でも問題の提起は出来るだろうし、克服もできるのにと思うのです。
◆◆◆
このフェミな人々の質問状を見つけた。
お山の人にこんな質問状を突きつけるつもりだったようだけど回答もらったのかな?

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html
質問書

1 「大峰山」に女性が入山してはいけない理由をお聞かせください。「伝統である」という場合の、その伝統が作られた理由(なぜ「女人禁制」にしたか)を教えてください。文書があれば、それも教えてください。

2 戸籍上で男性から女性に性を転換した人は、入山してもいいですか?
3 戸籍上で女性から男性に性を転換した人は、入山してもいいですか?

4 身体は男性ですが、自分の性の意識(性自認)が女性の人は、入山してもいいですか?
5 身体は女性ですが、自分の性の意識(性自認)が男性の人は、入山してもいいですか?

6 戸籍上は男性ですが、手術などによって身体は女性になっている人は、入山してもいいですか?
7 戸籍上は女性ですが、手術などによって身体は男性になっている人は、入山してもいいですか?

8 戸籍上は男性ですが、服装・髪型などの外見が女性的である人は、入山してもいいですか? 歌舞伎の女形が女装している場合には入山が許されますか?

9 戸籍上は女性ですが、服装・髪型などの外見が男性的である人は、入山してもいいですか? 宝塚の男役が男装している場合には入山が許されますか?

10 男性同性愛の人は、入山してもいいですか?女性同性愛の人は、入山してもいいですか? 
11 修行者・僧侶が性を転換したものであるとか、同性愛者であると明確になった場合、どのような対応をされますか?

12 生理がない/終わった女性は、入山してもいいですか?

13 部落出身者の入山が禁止されていたことがあったかとおもいますが、それが変えられたのはいつで、理由は何ですか?

14 男性なら誰でも入山していいのでしょうか。男性で「過去に犯罪を犯した人、現在犯している人、執行猶予中の人、ナチス礼賛者の人、しょうがい者、ハンセン病患者(回復者)、外国人、異教徒の方」の中で、入山してはいけない人はいますか?

15 修行とは関係なく登山・ハイキングを楽しむために入山・登山している男性がいるかと思いますが、では、同じ目的の女性も入山してもいいように思うのですが、どうして修行とは関係ない女性が入山することは禁じられているのですか。

16 男性が修行するのに、女性はジャマですか。

17 「大峰山」に関わる修行するもの、宗教者、修験者などの中には、結婚されている方もいると聞いていますので、性交渉(セックス)自体の否定はないとおもいますが、では、「大峰山」の中で性交渉することはどうなのですか? その理由も教えてください。 また修行に行く直前に、あるいは修行を終えて下山してきた直後に、「大峰山」のふもとの宿の中で性交渉することは戒律上どうなっていますか。

18 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
19 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
20 山の上に酒を持ち込んで飲むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

21 もし女性が入山したら、どのようなことがその人に起こりますか。また周りの人にはどのようなことが起こりますか。また山や環境などにもどのようなことが起こりますか。
22 過去に「大峰山」に登った女性たちのことをどう思っておられますか? 
23 犬や馬や猫などの動物のメスが入山してもいいのはなぜですか?

24 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」その他「聖なるもの」は、人権侵害、暴力、差別を認めないのですか? 時には認めますか?
25 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」「聖なるもの」は、すべての人を平等に愛するとおもうのですが、入山したいという女性を苦しめるのはなぜですか?
26 ある宗教の教義・経典・宗教文書などが人権侵害の内容をもっていたとき、それを変えるべきと思いますか?

27 「大峰山」の伝統は誰がいつごろ作ったのですか? 証拠・文書はありますか。 
28 登山道の一部は公道だということですが、そこの通行を制限することに問題はないのですか?
29 「女人禁制」に関する関係者や信徒の皆さん全体の意見をどのようにして把握されているのですか。アンケート調査や投票行動などをされたことはあるのですか?
30 今でも一部の信徒は開放すべきという意見だと聴きます。信徒など関係者の過半数が「女人禁制をやめよう」という意見になったら、伝統を変えますか? 過半数でも変えない場合、開放派が何割をこえたら開放されますか?

31 『「女人禁制」Q&A』(源淳子編著、解放出版社)では、さまざまな観点から、女人禁制が批判されています。これらの点をめぐって、じっくりと意見交換・勉強会をしたいと思います。そうした話しあい/学びあいの場をもちませんか。

まず・・えらく下品な質問が入っているのでくらくらしてしまうのだが、それ以前にやはりプロトコルが違うと申しますか、前提となる価値がまったく違うので、こんなこと聞かれても困るでしょう。これらの質問はあくまで質問する側の理論なんだから。
こんなのをトラピスチヌスなどやアトス山に持ち込まれたら困るだろうなぁ。

で、これに一つ一つ反論されている方のブログを見つけましたが、

http://d.hatena.ne.jp/MOKUBAZA/20051105
18山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

■A:あなたの自宅の居間で男性同士がアナルセックスするのを認めていただけるなら…

■A:教会の祭壇でオナニーしても良いですか?

いや・・・教会でも駄目ですよ。それは。
そもそも教皇ラッツィが認めんだろう・・・というかカトリックもフェミの攻撃に遭っているので持ち出さんで下され。お願いですよ。(笑)
しかしこんな品のない質問は嫌ですね。答える口が腐りそうで。よくこんなことを人に聞けるものです。理論が先に立つにしても品位がないものは生理的にいやですよ。このフェミな方達は、上記のブログのmokubazaさんが仰るようにやはり、女性専用車両とか、男湯と女湯とか、レディスデートかにも突っ込みを入れないとバランスが取れませんね。わたくしは混浴などは嫌ですけどね。(ちなみにmokubazaさんは幾つかの質問に回答を書いておられます。なかなか面白いです。)

わたくしは性同一障害の方とかいわゆるゲイの方に対し例えば世俗の法が婚姻を認めないとかそういうのには反対いたしますし、存在を認めないような差別主義者には腹を立てますが、それとこれとは違うでしょうといいたいものです。それこそ女性を愛することが出来ない、女性の精神を持って男性に生まれた方に「女を愛せ」というような押し付けに近いことを、お山の方々に要求してるも同然と思うのです。そもそもが文化コードが違う、理論が違うのに、こんな要求を突きつけられてしまったお山の方々になにより同情いたします。
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そういえば沖縄には男子禁制の禁域がありますし、その祭祀をつかさどるノロやユタは女性しかなれません。それらは沖縄の人にとって今も息づいている信仰で、なんびとたりとそれを侵す事は出来ないと思うのですね。信仰共同体のルールはよそ者にとっては無価値かもしれませんし、信じるというものは合理性など突き抜けてしまうような、合理と一致しない要素が多々あるものです。信仰とは信じるものたちによって成り立つ世界であり、それらはその信仰共同体の構成員が決めるものであると思うのです。

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巡回先の幾つかのブログで色々な考察がなされています
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051106
一番初めにこの問題を取り上げておられましたが、新たに考察の追加です。
宗教学的な説明とそれを踏まえた観点の考察が為されています。参考になります。
○日々徒然
http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-11-06
しばらくお忙しくてお隠れになっていらしたFD3Sさん。復帰後も飛ばしております。
早速、件の質問状に突っ込みを。
○たらたら日録
http://d.hatena.ne.jp/tarataradiary/20051106#1131245019
活動家のブログからの引用を交え、問題提起の方法論について批判されております。
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/archives/001351.php
内田氏も言及していました。やはり質問状の下品さに「載せたくない」とまで申しております。こうした過激で他者を見下したような方法論に、フェミニズム運動やジェンダーの運動の、これらの運動のよい結果を生み出した成果すら否定されるかもしれないという、行く末を案じているが、まったくその通りだと思います。

上記の方たちの意見でも、ジェンダーフェミニズムの方たちが問題とする性差別への問題提起そのものには否定的ではありません。(よくこうしたことへの批判を行うと男尊女卑思考下などと鼻息荒く反論してくる人もおりますが、彼らは皆、そうではありません。)結局、対話者への方法論、また対話する相手側への敬意、そして複数の価値の衝突といった場合における、自分自身の価値の相対化が問われてくると思うのです。自分たち自身をも相対化して初めて互いの個性について話し合うことが出来るのです。残念ながらこのジェンダーな運動家の方々は、まったく異なる価値、多様な価値に対する視点に於いて、自らを相対化して見るという事に著しく欠けています。多様な価値のなかには非合理的な「伝統」という文脈を大切にするものもあるわけです。
また、方法論も問われます。彼らは同じ考えをもつしかし穏健な人々の足を引っ張っているるとも思えます。例えばイスラム原理主義者の闘争的な方法論は、結局、それに反する原理的なものを生み出してしまいます(ブッシュ馬鹿みたいな)フランスの暴動でもイスラムの人々がシナゴーグを焼き払っているなど、他宗教への不寛容な姿勢がイスラエルの強硬な態度を引きずり出してしまうし、あるいはイスラエルに見られるようなイスラエルの強硬な態度がイスラム原理主義者を逆なでしている。
思想というものは突き詰めていくならば原理化する傾向にありますが、現実世界では多少の矛盾をも飲み込んでのらりくらりと狸に生きる知恵も必要でしょう。