宗教と性

昨日、大峰山を巡るフェミと宗教の話を取り上げたが、質問状のあまりの下品さに卒倒しそうになったことも書いた。こんな質問状をうちの師匠、濱ちゃんが突きつけられたらすごい激怒するだろうなぁ・・と思いつつ、実は自分も以前そのような質問をして困らせたことがあったのを思い出した。
性同一障害に苦しむある方から相談を受けたときのことだ。彼はカトリック信者で、一般に「カトリック教会では同性愛者は罪深い存在で認められない」などとといわれている。そのことで深く悩み、一人で苦しんでいた。そのことで師匠濱ちゃんに相談したのだが、濱ちゃんは「性同一障害というのは個人の個性の問題であり、それ自体罪でもなんでもない。教会はそうした個性を罪とは定めない」「ただ社会がそういう人が生きるには生き辛いので、辛いならばそれと折り合って生きていくか、努力するかしかない。冷たい言い方だけどそれはその人個人の問題だ」というような回答をしてきた。友人は自分の存在自体が罪ではないかと苦しんでいたわけで、それは間違いだと教えられてほっとしたようだ。
しかし、その後、彼は「婚前交渉は罪なのか?」というような性にかかわる質問を聞いて欲しいと望んできた。ゲイの人にとって愛の交換は子供を生産しない、性は子供を目的としたものとならないわけで、そして今の日本の法律では婚姻はゲイの人には認められない。だから彼にとっては好きな人がいたとしても、性というものは永遠に婚外の行為にしかならない。それが罪ならば告解ネタになるわけで悩むわけだ。
・・・・・・・・・で、師匠に質問したら、えらく怒られた。
なんだよ。それくらい教えてくれてもいいのに。ケチ。と思ったけど、よく考えたら女性に答えたくないよなぁ。本人が聞けばいいことだし、かなり私的であるはずの領域の話を私に答えなきゃならんのは嫌だったかもしれない。わたくし的には真剣な質問だと思ったけど、師匠にしてみると本人が悩んで苦しんでいる話ならいざ知らず、女性相手に第三者の閨房の話はしたくないだろうよ。失礼なことをしたなぁと思いました。
結局その回答は聞きそびれたけど、個人的には真剣で対等な愛(つまり互いがフリーな状態での愛、よーするに不倫以外)に関わることなら罪じゃないと思ったりしています。友人はもっと堂々としていいと思ったりしておりますよ。(今の日本で恋人を捜すのには苦労かもしれないが、わたくしだって似たようなもんだし)
そもそもが「罪」という言葉自体、本来的な意味では「神への負債」、負い目であって、それはイエスが贖ってくれたもろもろの罪への借りというほどの意味だったりするんですけどね。だから日本語で考える「罪」とはある意味、異なるものがあったりもするのだと思うのです。