典礼の美

塩野さんは旦那がイタリア人ではあるが、カトリック信者ではない。だから結構冷静な目で教会の効用を見ているようであるが、「キリスト者であろうとなかろうと、ローマに旅する日本人が教会を訪れ、その豪華さに唖然として、このようなところは神の住まいにふさわしくない、と書いてあるのを読むたびに私は怒りを感じた」(『イタリア遺聞新潮文庫)と大層お怒りである。塩野さんは、さほどのことでは驚かない毛の生えた心臓の我が兄が一度、仕事で会ったことがあるが「すごい怖いおばさんだった」と感想を述べていた。この大層賢くてしかし怖い人には怒られたくないなぁ。
で、塩野さんが言うには「カトリックの教会は、神の家であると同時に、それを信じる人々の家なのである。その家をより美しく飾って何が悪い」とさらに鼻息荒く語り、「中世では、祈りの場であるとともに社交の場であり、教育の場でもあったのだ。私はコキュにさえも守護聖人をつけてやった、ローマを通過することで変ったこの宗教を、愛し始めたようである」と結んでいる。
流石ルネッサンスを愛し、マキャベリを愛し、ローマを愛した人である。心底イタリア人になりきっているこの視点、実は祈りの場の効用をよく知っていると。
ブログ「玉響のコロッセオ」で典礼の美について書いているユリアヌス先生も度々言及しているように「非日常」であることがもたらす神秘の空間。それが宗教施設には存在する。日本の神社仏閣に目を転ずれば実は見た目は質素に見えても贅を尽くしていることはよく分かるだろう。しかも平等院鳳凰堂など、今でこそ枯れ果てたいい感じになっているが建立当時は暈繝彩色で彩られた派手派手な様相だったという。庶民からするならばそれはまさに非日常空間であった。三十三間堂のおびただしい仏像も、密教曼荼羅構造を持つ仏閣の作りや、夢幻へと誘う燈明も、それは神秘の現世的解釈であり、その空間に身を投じることで祈りはより深くなっていく。美の探究は神秘の探求でもあり、それをなぞることで人は祈りに引き込まれていく。
正直申すと、わたくしは禅寺の簡素な美が好きなので、塩野さんには怒られても「バチカンのあの装飾過剰なアレはどうも気持ちが悪くて馴染まないよ。」と思っていたのだが、やはり同じように思っていたオリゲネスの碩学小高師が著作のあとがきで「あそこで祈り続けているとやがてその美が深い祈りへと導くのが判る」てなことを書いていました。どうもやはり信仰の目で見ないとあれらはわからない代物になるようである。だから多くの信者でない日本人が「なんじゃあれは?派手派手すぎ」と、思うのも無理はない。キリスト教的な神学、キリスト教的な神秘を身体で知って初めて理解できる造形なのだとは思う。逆をいうなれば信者でアレが理解できないのはある一つの神秘には到達し切れていない。ということかもしれない。内面にある光と闇を見据えていない私などはいまだあのバロックの豊饒を理解できないので、まだまだもいいところだ。逆に三島由紀夫は理解したかもしれない。彼の作品には光と闇がある。
◆◆
ところで、ま・ここっとさんがこんな記事を↓
http://malicieuse.exblog.jp/3668855/

「ローマのイケメン神学生カレンダー」だそうだ。毎年出ているのだそうだ。
こういうの↓
http://www.calendarioromano.co.uk/
スータンに身を固めたイケメン神学生。
これも教会の美に欠かせない要素かもね。神父たるや、腐女子に萌えられるように風貌を磨かないといけませんぜ。サービス業の自覚を持ち、とくに潜在的ニーズの高い腐女子市場に応え、営業をしないとジリ貧になるだろうよ。
禅寺坊主もかなり腐女子的に萌え的な存在ではあるし、神道における巫女さんは巫女萌えな秋葉男性のニーズに働きかけていると思えるので、カトリック教会としてもシスターという萌え以外にやはり「スータンを召した神父」という商品展開をしたほうが良いと思われなのだ。
典礼の美学はやはり最後は司式するイケメン神父でしめないとね。

因みに上記のカレンダリオシリーズには、ゴンドラリオ(ヴェネチアのイケメンゴンドラ乗り)とあわせて、イケメンラガーマンヌードってのもあるらしいよ。某元ラガーマンで羅馬の神学生な誰かさんも腐女子に萌えられるように磨くように(<命令)
もっとも、これらのカレンダリオのニーズはおそらくその筋の方々のためと思われる。

ところで塩野さんによるとバチカン教皇庁には塩野さんが「頭のよい男達が集まっている組織を、私は他に知らない」と萌えるほどに、おつむのいいのが詰まっているようである。上記のイケメンスータン神学生も潜在的にそういう男であるわけで萌え倍増であるかも。
◆◆
尚、塩野さんいわく、個人的には魅力ある殿方が多いのに集団となると(つまり教会組織として)ろくでもない・・だそうで、わたくしもそう思うときがよくあります。教会が世俗政治(特に倫理に関わる法律)に口出しするのはどうよ?という思いが塩野さんにもあるようだ。