未来派とデザインとプロレタリアート

大学の授業に行くには新幹線に乗っていく。今日はプラットフォームにのぞみっていうのが入ってきたんですが、へんてこなのでびっくりした。かなり田舎モノに成り下がっているので世の中の特急列車のデザインなど無知状態になっていたんだが、ミミズが伸びきったみたいな車両デザインはコリャなんだ?アヒル顔の変なのは知っていたがこれはいつの間に登場したのだ???ぬるぬるの曲線デザインが気持ち悪いよ。
ルイジ・コラーニがデザインしたおフランスの飛行機もそうだがスピードに敏感なデザインというものがある。究極はぬるぬる式だ。

ぬるぬる大王ルイジ・コラーニのデザイン群↓重いので要注意。
http://www.fotorolf.de/colani/index.html
これを見たら判るけど変なデザイナーだよなぁ。どれもぬるぬる。
マッハ5のコンコルドのデザインを勝手にやったり、スピードオタ

これらが飛躍的に発達したのはやはりコンピューターのお陰である。それ以前はデザイナーと職人の連係プレイで曲線美を追及した。ポルシェのあのデザインもフォルクスワーゲンビートルのデザインも職人技の賜物である。
こういう流線型、ぬるぬる曲線が流行した時代がある。

で、今日は1900年代初頭のデザインというか芸術について語ってきたよ。当然、ぬるぬるの元祖の「流線型」を愛する未来派である。モダニズムには色々あるケド、未来派は特に馬鹿っぽくていい。未来派的には、工業の美の流線型を愛し、力強さを愛する。だから鉄鋼の曲線は究極の彼らの美だったりする。力強くて曲線。ぬるぬる新幹線なんか見たら涎を垂らすかもしれないよ。

彼らはいっちょ前にマニフェストなど持っている。1909年に「未来派宣言」などしている。しかしその内容たるやただのマッチョ馬鹿。

マリネッティによる未来派宣言

一、
吾等の歌はんと欲する所は危險を愛する情、
威力と冒險とを當とする俗に外ならず。
二、
吾等の詩の主なる要素は、膽力、無畏、反抗なり。
三、
從來詩の尊重する所は思惟に富める不動、感奮及睡眠なりき。
吾等は之に反して攻撃、熱ある不眠、奔馳、死を賭する跳躍、
掌を以てすると拳を以てするとの歐打を、詩として取り扱は
んとす。
四、
吾等は世界に一の美なるものの加はりたることを主張す。
而してその美なるものの速なることを主張す。廣き噴出管の
蛇のごとく毒氣を吐き行く競爭自働車、銃口を出でし弾丸の
如くはためきつつ飛び行く自働車はsamothrakoの勝利女神よ
り美なり。
五、
大世界の空間を奔れる地球の上を、箭の如く奔ることを理想
として、手に車上の柁機を取れる男子は、吾等の崇拝する所なり。
六、
詩人たるものは其の熱心、光彩、喜捨を以てして、世界根本
の元素(四大)に對する威激を大にすることに全力を傾注すべし。
七、
美は唯闘に在り。苟も著作品にして攻撃的Aggressivo性質を
帯びざる限は安んぞ傑作たることを得む。詩とは不知諸力に
對する暴力的攻撃にして、不知諸力はこれによりて人類の用
に供せらるるに至るものなり。
八、
吾等は幾世紀の岬の突角に立てり。何故吾等は不可能の深秘
門を開かんとするに當りて、背後を顧みんとするか。時間と
空間とは死したり。面して吾等は既に絶待に住せり。吾等が
同時にあらゆる處に在るべき無窮の速を成就せしは其證なり。
九、
吾等の頌せんと欲するところは戦なり。戦は唯一なる世界の
衛生法なり。また軍人主義なり。自由の為に戦ふ戦士の做し
出す破壊なり。吾等は人の之が為に肯て死する諸理想を賛美
す。又女子に對する輕侮を讚美す。
十、
吾等は博物館、圖書館及あらゆる種類の學士會館を破壊せん
と欲す。吾等は道徳主義Moralismo女性主義Femininismo及あ
らゆる因循なる怯懦を攻撃す。
十一、
吾等の詩は之を勞働若くは遊戯若くは反抗の為めに活動せる
大多数に献ぜんと欲す。現代諸大國の革命の多色多聲なる潮
流は吾等の歌はんと欲する所なり。試に主なる詩料をい列記
せん乎。電灯に照らされたる武器工場及其他の工場の騒がし
き夜業、烟を吐く鐡の龍蛇を臙下して厭くことなき停車場、
烟突より騰る烟柱の天を摩する工場、刀の如く目にかゞやき
て大河の上に横れる巨人の體操者に類する橋梁、地平線を嗅
ぐ奇怪なる船舶、鋼鐡の大馬の如く軌道の上に足踏する腹大
なる機關車、螺旋の占風旗の如く風にきしめく風船の目くる
めく飛行等是なり。

森鷗外が訳した未来派マニフェスト。鴎外の豊かな表現で一瞬気づかないがかなり馬鹿臭いよ。これは。スピードがカコイイ!!!とかマッチョな男臭いのが良いんであって、女子供はイラネ。とか暴力は詩的だとか、アホか。

だがこのマッチョ臭い発想はそもそもが労働運動と共に出現した。工場で働く肉体労働者の美を高らかに歌い上げ、工業労働者が作り上げていく工業製品を最高の芸術だと礼讃しているわけである。貴族文化の落とし子であるロココの女臭い文化、芸術と比すればなんとまぁ力強いと申しますか。未来派はイタリアに生じたモノであるがイタリアンデザインの現代でも優れたあれらはこうした工業製品の芸術という発想にあるということでしょう。これはイタリアに限らず、ドイツもバウハウスなんて芸術運動があったし、時代を遡れば、おフランスアールヌーボー、イギリスのウィリアムモリスの工芸運動、ウィーンやアメリカで見られたアールデコなども工業製品の美、つまり先端技術を用いて如何に美を再現するかという発想から生じてきたものだといえますですよ。流石、アルテ、サンジカ、ギルドなどを発達させた国である。労働者が美を所持していたんですねぇ。

ところで、昨日友人と話していた時、「たぶんあんとに庵はイタリアだったらバリバリの共産主義者になっただろう」という話になりましたよ。友人は「ヨーロッパの社会主義者共産主義者は芸術の効用をよく知っている。」と言っておりました。確かにイタリア人など見ていると庶民自身がおらが街の美術は自分たちのものだ。という自負がある。庶民と労働者にとって伝統的な芸術は自分たちのものだと考える。当然だ。そもそも芸術家は肉体労働者であるもんよ。*1
しかしわが国の共産主義者も、社会主義者も美がない。素人芸を賛美するか下品な芸能を賛美してるかそんな具合で、どうも洗練された伝統的な美については天敵だと思っている気配すらある。前述の通りヨーロッパ人は庶民が自分の町の伝統的な美を威張り散らすんだが、日本の左巻きの人と話すとその手の美への無理解にいらいらさせられ、子供達の書いた絵とか素人の描いた絵とか「大衆に人気のある」という観点で有難がっていたりして萎え〜〜〜な気持ちになるときがあります。そもそも運動と連動しているものがぜんぜん美しいと思うものがない。こういう傾向は中国にも言えるのでアジア的な現象なのかもしれませんよ。(ただし、戦前の社会主義者は違う。プロレタリアートな美を知っていた気配があるよ)
日本の工業製品は何故かダサい。家電製品は今でこそ色々あるが、お花模様が多かった時代もある。ポットなどお花模様は嫌だというのにそれしかなかったり。(中国のポットもそういえばそうだなぁ)その後、コンピューターの導入と共にぬるぬるデザインが異常に増えて車はおろか、音響機器から、電気ジャーまでぬるぬるしていたりする。ぬるぬる系がはやるとそればかりで、取捨選択の余地がなく、電気屋にこんなに製品があるくせにこんなダサいデザインばかりとはどういうことだ?!と八つ当たりをしたことがあります。ああ悲しい。

閑話休題。イタリアンデザインにしてもドイツのデザインにしても職人が誇りを持つに足る製品が多いのは、やはり工業的労働者の誇りが今も生きているからだと思いますですね。ベルルスコーニのごとき芸術音痴では駄目だけど。
ただ・・・イタリアの製品って、優れたものはすごく優れているんだけど、どうしょうもないのはとことんどうしょうもない。すぐ壊れるし。ダサいものもとことんダサい。うへぇってものまである。その点、日本は、それなりの水準を保つから偉いよ。
これらを支えるのは誰かというと理工系の技術者なんですね。日本は理工系の技術者はもう大切にされてきたし、それに誇りを持っていい水準を世界に示してきましたよ。その水準を以てしてデザインにも望めば優れたものを生み出せると思うんですが、まだまだ庶民はそこには価値を見出さないようです。
同じ傾向はアメリカにもあるようで・・・・・。「学生にやらせれば何ドルで済むのに」などと言われるので萎えるらしいよ。

*1:ところで、未来派は当時の成金資本家主導の芸術はダサいと考えている。成金資本家や支配者芸術はイタリアなら例えばビットリオ・エマヌエーレ推進の美術である。伝統的な様式を踏襲したあの建築物は、今もローマ人にださ〜〜〜いと思われているようだ。ハプスブルグっぽい美術もダサいと思うけど、あれもダサいよ。だからここでいう「伝統的な芸術を庶民が持っている」というのはルネッサンス的なあの芸術への態度という意味で言っておりますのじゃ。ルネッサンス芸術家はアルテを形成して職人としての誇りを持ち、あの時代に工業労働者のプライドを示した第一号ともいえると思うのですよ。