十字架の道行き

今日は夜ミサに行ってまいりましたよ。最近朝起きるという行為に対し自分を信用していないので、日曜日の主日ミサにいけないだろうと踏んで、夜の主日ミサに行くことにしましたよ。教会の時間というのは日の落ちるときから日の落ちるときまでが一日なので、土曜日の夕方はもう主日になるらしい。土曜日の夜は色々用事が生じるのでなかなか行きづらいが行ける時は行くように習慣づけないとなぁ・・・。
で、本日は最近、仕事がまたぼちぼち入るので、ニートな恐怖から離脱出来た感謝の報告を神様にしに行く。その突破口を作ってくれた某K社の編集者や絵を買ってくれた某編集者などに感謝しつつ、まぁ祈るという按配ですよ。こうやって社会の人々の恩恵によって生きているのだと思い知りながら祈るんですな。
で、今日はミサ後に十字架の道行っていうお祈りをしましたですよ。これはフランシスコ会エルサレムにいる時に発明したお祈り方法で、エルサレムにおいてイエスゴルゴダまでの受難の道のりの物語をバーチャルに再現しながら祈るという、まことにわかりやすいお祈りなのです。なんとなく人間の持つ判りやすい感覚的な要素を探求し、庶民にとっての信心の方法論に精通したフランシスコ会ならではの祈りです。(他にもクリスマスの聖家族人形もフランシスコの発明だし)
現代の祈りでは15の箇所でいちいち祈る。昔は14個だったらしいけど今は15箇所。だから聖堂には14箇所のこの祈りのための装置が必ずある。(15番目は祭壇の十字架に祈るので14個)簡素なものでは十字架だけというのから、その場面が絵になったもの、レリーフなモノとさまざまです。それぞれにはピラトの前で裁きを受けるイエスとか十字架を担いで倒れるイエスとか、十字架に打ち付けられるイエスとか、聖書のあの受難の物語が具体的に描かれています。子供にもわかりやすい受難物語な祈りです。
聖フランシスコイエス・キリストオタクで、それも十字架にかけられたイエスの秘儀というものを異常に大切にした人でした。有名な聖痕の物語も、それはイエスの十字架の苦しみを我が物として体験するということで、それを受け継いだフランシスコ会士達もキリストの十字架への道行きの物語を大切にしてきたという按配でございましょう。因みにロザリオの祈りはフランシスコ会のライバル、ドメニコ会の発明品。こちらも庶民の信心への希求が高まった時代のシロモノで、やはり庶民の祈りとして定着していきましたね。
で、友人と祈りとスタバトマーテルを奉げながら回りました。なんと申しますか、こういう定型の祈りを繰り返し、静かな祈りの旋律を繰り返し歌うことで、物語を理解していくという作業は、いいものでございますね。長い時間がかかるので受難に至るそれぞれの箇所に思いをはせる余裕が出来る。よく考えられていると思いますよ。
しかし・・普段はだらくさしているか、俗なことで汲々としているわたくしとしては、タマには聖なることでもして己を取り戻さないといかんですよ。仏教などでも、お寺さんで読経など聞くと心が洗われますが、聖なるなんらかのものに触れる習慣は大切だなぁと思うのです。
で、行き帰りに読むものがない。文春と新潮は両親が買ってきたので、サピオとかいう雑誌を買ってみましたが。。。中国様とアメリカ様の記事でまた俗な世界に引き戻されてしまいました。
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で、先日師匠濱ちゃんが集まりでラッツィンガー(当時)の「典礼の精神」に基づいた講演をどこかでしたというのを友人が報告してくれたんじゃが・・・日本のミサ典礼はあと2年で駄目出しが出るかもよ〜〜〜と言っていたそうだ。日本のミサは日本語でやっているもので、その訳文等をきちんとバチカンに報告していなかったらしいよ。で、それを報告したら「異端臭いぞ」とか言われちゃうほど適っていない箇所が幾つかあるらしいよ。。ぶるぶる
私にはそれがどういうことかはよくわかりませんが、昨今の日本のカトリック教会で神様のことを忘れて人間ばかり見ているような思考が蔓延しているなぁ。。と思うことは多いのでさもありなんとは思いますです。それぞれの都合で神を「こうである」と規定しすぎたり、倫理にばかり目がいったり、政治に色気を示しすぎていたり、子供が理解できないからとか子供の教育のためにとかで、ミサに参加しないとか。まぁ色々。色々な場面で神秘が疎外されている
勿論、隣人を見るということや神観を自己の体験で探るのも大切な要素だとは思うけど、そればかり見つめていては視点が狭くなりすぎて、却って自分の首を締めて苦しんでいる人が多いんじゃないかと思うことしきり。
例えば、先だっての「福音宣教」誌に東京教区の大司教が書いていたのですが「日本人にとっての神は女性性がしっくり来るだろう」とかいう理論。これはもっと以前に遠藤や井上師といった人がいい始めたと思うのですが、わたくし自身は彼らが言うように西洋の神が男性的とも思わないし(慈悲深い神の側面というのは昔から存在した)「日本人にとって」という発想が既に狭い自分たちの個人体験から基づいたもので、普遍の視点ではないので、わたくし的にはリアルじゃない。寧ろ父親不在の弊害が社会で現れている時代に遅れていると申しますか・・・しかしこうした視点の根底も結局は神というものを自分の体験から都合よく規定してしまう方法論で、わたくしとしてはどうなんだろう?と思います。
父性母性両方の側面というよりは寧ろそのように性に規定する発想そのものがナニか違うなどとは思います。そのように見始めるとそれに囚われてしまい、攻撃したり否定したりする要素、つまり「敵」を作ってしまうだろうと思うのですね。(この場合は父性という要素)それは最終的に自らを苦しめる結果ともなるだろうと思うのです。神はあまりにも深遠で我々の認識では理解できないからこそ神だと思うのですが、どうだろうか?
神観は個人に帰る事なので本当のところはそれを語るのはほんとはすごく難しいとは思います。わたくしの神観が他者の神観と共有していなくともそれは当たり前であると思うのですね。