姉妹なる死

両親の古い友人が亡くなられたので父が葬式に行った。ご夫婦共に両親が結婚する以前からの付き合いで、名古屋に住んでおられた。母は体の不調の為、大事をとって父だけが行ったのだが、このところ父の古い友人の訃報が多い。父はそういう知らせを聞くたびにため息をついている。友人が一人また一人と亡くなっていくのはすごく寂しいことなんだと思う。明治生まれの祖母にいたっては友人など既にほとんどが鬼籍に入っている。何故か長寿兄弟な性で妹弟は全て生き残っているんだが。下二人、特に弟(と言ってもかなりなじじい)は激しくボケてしまい家族が大変だそうだ。祖母は意識はしっかりしているが時々混乱するので、混乱をとく作業をしないと大変になるときがある。いずれにせよ来るべき日のことも覚悟し、そのときどうするか、島にいるのでどうしようか?祖母が望むなら洗礼を受けてもいいと思う。戒名は既に持っているけど、祖母がお世話になっているのはいつでも神父やシスターだしねぇ。ミサに出たいと言っていたしねぇ。・・・などと話をした。
そういう話を朝ごはんを食べながら母としていて、ふと、話の内容が死の準備の話っていうのもねぇ・・年齢と共に話題は変るね・・と母がつぶやいていた。

以前、教会での集まりで、わが師濱ちゃんがこんなことを言っていた。話の流れで何故か死の話になり、「面と向かってなどいうことではないし、語弊があるかもしれないけど」と前置きをし、死の宣告を受けた人が「神父様、もうナニも出来ません」と悲しむことがあるのだけど・・「死ぬことが出来るじゃないか。などと思う。」ということをぼそっとつぶやいていた。
宗教は死の準備のための教えを説く。それはキリスト教に限らず、仏教でもそうだ。あの世のことを話す。よく死ぬためにどうするか話す。
「姉妹なる死」
聖フランシスコは目前に迫った死の予感をこのように形容した。