施すということ

先日のエントリに対する青龍さんからのご質問で色々考える機会をいただいた。こちらではmadrigallさんが書かれた施しという行為について少しまとめておこう。
究極の選択として、目の前に今にも死にそうな人がいて、それを助ける手段もなく、聖堂の一部の備品を売れば助けられるというなら確かに、ためらわず売り払うだろう。
レ・ミゼラブルの司祭は困窮するジャン・バルジャンの盗みをとがめるどころかさらに別の糧となるだろう食器をも持たせた。この小説は子供の頃、好きだった。何度も読んだ小説である。司祭は単に高みから貧者に施したのではない。その前に共に食事を取り、ジャンと対等な立場で応答している。これをきっかけにジャンは尊厳ある「市民」として自立してゆく。
うちの母教会はすごくでかいので日曜日は色々な人が出入りする、しかしその聖堂でも無人となるときがあり、賽銭泥棒がやってくる。マリア像の前の献金箱がいつも狙われるのだが蝋燭代程度しかはいってない。それをちまちまと盗んでいく常習犯がいた。ある時やはりその賽銭泥棒がやってきたので、神父に友人がなんとかした方がいいですと、訴えた。神父たちは無言で悲しそうに顔を見合わせなにも答えなかった。彼らが何を考えていたのかはわからないが賽銭を欲しがるほど困窮してるのならば見逃そうというのだろうか?それともその人のことを知っていたのかもしれない。友人は続けて「幾ら微罪でも罪を犯し続ける行為を放置しておくのは霊的によくない」と訴えた。神父は「わかった。なんとか善処しよう」と答えた。その後、善処されたとは思えなかったがそれでも怪しい人が来ると司祭はうろうろと聖堂を見回りに行っていた。
また、教会にはよく物乞いがくる。多摩川が近いのでホームレスの人もよく来る。そういう時どういう対応をしているのかと聞いたら、ご飯を差し上げているとのこと。師匠濱ちゃんの元にある時ホームレスが「飯を食わせてくれ」と来た。時間帯が悪かったのか、まだ彼ら修道士達のご飯の準備すら出来ていない。腹が空きすぎて短気になったのかホームレスのおじさんが「飯はまだか?!」と怒り始めた。濱ちゃんも腹が空いていたので「僕だってまだ飯を食ってないんだぞ!!!!」と怒り始めたらおじさんはおとなしくなってしまったらしい。腹が空くというのはつらいことだ。特に殿方にとっては。だから可能な限り、望めば振舞うという方針を採っている。
しかし「金をよこせ」という人も来る。そういう時はお断りをしているそうだ。お酒や煙草、博打や薬に消える可能性もある。しかしそういう方針はとっていないとお断りしても欲しがる人がいるので「じゃぁ、教会の草むしりをしてくれたらその報酬として支払う」と濱ちゃんが言ったらみんな帰ってしまうらしい。「働きたくないのかよ?!」と呆れたらしいが、お金は働くことが可能な人に対して、労働の対価として渡すのが一人の人間の尊厳に対する応答だと思う。
施すというのは難しい行為だ。
およそ働くことが可能な人に対し自立のきっかけとなる入り口としての施しは必要だが、依存化する施しは害となる。それは人の尊厳を破壊してゆく。
アフリカの貧困は経済面での指導者の不足にある。労働者を雇う器を作ったとしても指導者を養成しなければ結局は永遠の貧困と搾取が待っているだけだ。しかし現実のアフリカはもらうことに慣れてしまっているらしい。ある司祭がボランティアで南アフリカに働きに行ったのだが「土産」を持ってこなかったとなじられたらしい。持てるものは持たざるものと分かち合わねばならないという価値観も背後にはあるのだろうが、とにかく先進国の人間はモノをくれるのが当たり前だと思っている。それが現実でもあるが、悲しい現実である。

同テーマをuumin3さんも書いておられます。
○uumin3の日記
貧しい人に施すこと
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050924#p1
施すという行為における宗教の考え方についてです。

○玉響のコロッセオ
A年年間第26主日
http://iulianus.exblog.jp/3482993/
ユリアヌス先生によるマタイ伝の解説。
エスは「徴税人や娼婦があなた方よりも先に神の国に入る」というその箇所への解説。社会的弱者である彼らに対する問題について。

さて、先日のテーマは施しと違って、教会の美術品を売り払う話でしたが、よく考えたらあそこは入場料を取っている。バチカン美術館は世界中から毎日人がおとづれるのである。その入場料の収益はものすごい膨大だろう。ミュージアムショップの売り上げとか、絵画や彫刻、工芸品の貸し出しによる収入も含めたらかなりの収入である。売り払うよりも、延べの年月から考えれば比較にならないほどの収益を生み出す。その金を貧しい人への支援の基金とかにしたほうが遥かに効率がいいよ。永遠に途切れない資金源だ。