告解

カトリックには「告解」というシステムがある。罪を告白するシステムだ。「懺悔」などという人もいるけど、仏教用語で言うところの「懺悔」とは性質が異なる。
神父に向かってそのときまで犯した罪を告白するんだが、そもそも「罪」の概念もたぶん日本語で言う「罪」と微妙に違うので説明するのが難しいんじゃが、とにかくその罪を神父に向かって告白し、神との和解を図るというシステムである。神父は単なる仲介者なので、彼は道具に過ぎない。彼自身が罪を赦すというコトは出来ない。神が赦すための作業なだけに過ぎないんだが、告白する罪を反省をしていないと成立しない秘蹟である。その為告解の前に、自らと向き合って告解ネタを考える。
妹は大学で心理学をやっていた。んなもんで今アメリカにいて、しばらく主婦業をしていたのだが、大学に行きなおして自らの心理学の知識を利用したカウンセリングの仕事を将来的に考えようなどとしている。しかし、実は妹はカウンセリングというものを受けたことがない。なもんで後学の為にカウンセリングを受けてみることにした。
しかし妹は能天気なのであまりカウンセリングを受けねばならないほどの悩みがない。ネタを考えるのにかなり苦労したようだ。私も反省力がないせいで告解ネタがあまりない。ネタを考えるために悩むその気持ちがよく分かる。(尤も怠惰の罪ー締め切りを破る。寝坊する・・・をよく犯しているのでそれはいつもネタなのだが、何度もおかすので本当に反省してるのか?と、かなり後ろ暗い)
面白いのはカウンセリングの導入でのカウンセラーの反応が告解とほとんど変わらないことだ。妹が苦肉の果てに出した「友人とうまくいかなかったこと」の悩みについてカウンセラーは「心の中の問題(感情)と言動は別物です。腹を立てたり、好悪の感情を抱いたからといって悩む必要はない。それは仕方ないことで、しかし言動、つまり行動や言葉を発したときに生じる問題が問題である」などと先ず解答してきたという。これは我が師匠濱ちゃんが「人を嫌いになることは罪ではない。それは仕方がない。しかしその気持ちで人を傷つける行いをしたときに罪が生じる」と言っているのと同じである。「人に対する好悪の感情も含め、あるがままの自分を受け入れる」という考え、それはキリスト教概念に共通する考えなのかねぇ?などと妹と話していた。
そこからの解決はカウンセリングと教会の告解システムは違う。教会はそこから「では、全ての問題を神に委ね、祈りましょう。償いとして主の祈りを三回唱えること」とかいう神を信じていない人には、なんだそりゃ?・・的な方向に行くのだが、カウンセリングはそれに対し、心理学を応用した解決方法を提示してゆく。それはそれで方法論がなかなか面白い。なんとなくだまされたような気もするけど、過去まで遡って自分と向き合うという作業をさせられるのだ。
それにしても、アメリカの場合プロテスタントが多いので告解システムを持たないから、カウンセリングが多いんだろうか?仏教などと違い、キリスト教は倫理的な「罪」を意識する宗教なので救済システムが欲しくなるのかもしれない。イタリアではあまりカウンセリングは流行らないと聞いたが、告解システムがあるからなのか、それとも友人に愚痴をこぼすからなのか、マンマに愚痴をこぼすからなのかは判らない。或いは現代は教会に行かないイタリア人も多いので少し増えているのかもしれない。どうなんだろう?