盂蘭盆

カトリックという項目に入れるのもナニですが、わたくしの家は曹洞宗で、今日はお寺さんに我が家の盂蘭盆の法要などをしにいきました。お寺さんのは先日行われたのですが、毎年我が家にいらしていただいていたのをこちらから墓参りもかねていこうというコトで、出かけてまいりました。
盂蘭盆会についてはuumin3さんのエントリに詳しい↓
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050815

しかしわたくしはカトリックなので、お寺さんでお参りするときにもつい癖で十字を切りそうになる。染み付いたカトリック根性を自覚する羽目になるが、お坊さんの読経を聞きながら祈っていると、なんとも宗教というもののある種の儀式性には似通ったものがあるなぁなどと思ってしまいます。あの単調な読経を聞いていると、なんとはなしな観想状態に入ります。カトリックでも定型文を延々となえる形となるロザリオの祈りなどがありますが、アレを聞いていると深い祈りに引き込まれていくんですね。またグレゴリオ聖歌のような音調で詩篇などを交唱するシトー派の時課の祈りなどを聞いていると同じ効果が得られます。祈りという行為は単調さを持った音によってより深いところにいけるのだなどと思いましたね。単調さは静寂に通じ、聞く祈りによって神と個人とが直接的に出会うことが可能になる。お坊さんのあり難い読経を聞きながら神との出会いをしている自分ってなぁ・・と思いつつも、最近のミサでは得られないよい祈りの時間を持たせてもらえました。しかし、木魚とリン(字がイマイチわからず)を適宜に鳴らしながら読経している、その音楽性ってのはいいですね。
ところで何故かお坊さんが気を使って椅子などを用意してくださったのですが、落ち着きません。「日本人は正座だろ!」とか言いたくなってしまうぐらい、ああいう場では正座でないと落ち着かないです。こうした立ち居振る舞いというものも重要だとは思いましたね。カトリックでも重要な場面ではひざまづいたりします。こういう所作によってよりその神秘を身体で理解することが出来る。何故か座ったままだとそれが自分的には出来ないんですよね。足の悪いお年寄りなどには辛い所作ですから、これは個人の自由だと思いますが、最近は突っ立ったままとか座ったままというのが前提の作りの教会が多くてどうもなぁ。いっそ畳で正座してあすかるのがよいか?
それにしても仏教美術の伝統的な様式というのも面白い。キリスト教ならさしずめ8角形にするところを、6角形のものが多いとか、蓮のモチーフが随所にあるとか、あとお坊さんが手から離さず持っていた蓮の形をした謎の杓丈。それは僧侶が仏様に代わってお勤めするときに持つべきものらしいんですが、妹が「仏様の象徴ですか?」と聞いたら、お坊さんが戸惑っておられた。「象徴」ではなく神秘的な大切なナニかということなのでしょうが、その辺りにカトリックの神秘を説明するときに感じる困難さのようなものをお坊さんも体験しておられるんだろうなぁ。と思いました。しかしあのへんてこな謎の持ち物のことはもう少し突っ込んで調べてみたかったので、名前を聞いたのに忘れちゃったよ。