ヒトラー最後の12日間を観る

以前、この映画を見た某神父が、この物語におけるヒトラー福音書のイエスとを比較し、物語のクライマックスにおける弟子達の動揺、裏切り、最後まで付き従った女達、そういうのと比して語っていた。
なもんで、いったいどんな映画なのか、それ以来気になっていたのだがようやく目撃する。
http://www.hitler-movie.jp/
いやぁ、ブルーノ・ガンツはやはりすごい役者だ。渋いのですごく好きな役者なんだが、狂気と普通の人間との二つの顔を持つこの怪人物をみごとに演じていた。多くの人が評するに、人間であるヒトラーの部分と、狂気の部分とのそれとの対比によって見えてくる彼の弱さの部分。その弱さゆえにどこにでもいる人間アドルフの顔を書いたという点で、今まで存在しなかった解釈の物語が生まれた。
そしてヒトラーだけでなく、彼を取り巻く人々のとる行動は、自らのうちにあるだろう弱さ、或いは自らが信じるものがあったとしたときにとるかもしれない、どれもがごく普通の人間に内在する予測される行動だ。究極の状況に置かれたときにそれは露呈する。ペテロは鶏が鳴く前に三回イエスを否定した。マグダラは最後まで付き従った。ユダは信じるものを見失い主を売る。件の神父はこの映画でそんな光景を見ていたようだ。人間の持つ弱さや悲しみは、それが後に善の真理と呼ばれるものに殉じたか、悪の真理と呼ばれるものに殉じたかに関わらず、同じような行動を見せる。
この映画のなかのベルリンは絶えず頭上に砲撃が降りかかる。地上は死が支配している。絶望しかない中で生きようとしている人々がいる。誤った理念にしがみつきながらも。既に終わりが見える中で、それを認めようとしないおろかな泥沼がそこにある。歴史として振り返るからこそ我々は簡単にあの時代をさばくことはできるが、しかし渦中にあって、そうした批判的な視点でいられるかどうか疑わしい。

ところで、私は東西の壁が壊れた1989年のあの年の夏にベルリンにいた。壁が存在するベルリンの最後の夏。西ベルリンという都市は不思議な位置にあった。東ドイツのなかに存在する西側の都市。それが西ベルリンだった。モスクワから東ベルリンにたどり着いた私は、東ベルリンのホテルに滞在した。ソ連が余りにもナニもなかったが為かどうか、東ベルリンのホテルの朝食は異常に豊かに映った。しかし客が全然いない。セルフサービスの芳醇な食料無駄にみごとな食物がテーブルを飾っている。従業員がかしこまって突っ立っている奇妙な雰囲気の中での朝食には息が詰まる思いがした。他に客が来ないのか?と心細くなったよ。
夕刻、街のレストランで食事でも取りたいと出たはいいが、モスクワ以上にナニもない街だった。壁のそばまで行くとカップルが等間隔に立って西ベルリンの空を見ている。地雷地帯と、鉄条網、等間隔の監視塔。その先には延々と白い、本当に真っ白い壁が遮っていた。そして壁の向こうからは色とりどりのネオンと街の喧騒が伝わってくる。風に乗って運ばれてくるロックミュージックの性で東の静寂がより寂しく感じられる。東ベルリンの人々はナニをするわけでもなくそれをずっと見つめているのだ。変な光景だった。
次の日、壁を越えた。
チェックポイントチャーリーで、検問を受け、西側に足を踏み入れる。長いソ連東ドイツの旅から解放された目に、西側の町はかますびしい。ネオンの洪水、広告の洪水、看板の洪水、音楽の洪水。疲れ果てて目を投じた先に壁があった。壁は落書きだらけで、東側の真っ白な壁との対比が不可思議だ。そして異様な姿の国会議事堂があった。ベルリンのこのヒステリックな街を睥睨するように建つ国会議事堂には、私が目撃したそのときも戦火の爪あとを壁に残していたと記憶する。それは今日私が見た映画の物語の痕跡だったのだな。
現代美術作家、ヨゼフ・ボイスやキーファーの作品は異常に重い。このベルリンを見たとき彼らの重さがやっとわかった。抱えるものの重さ。それは領土が戦場となった、そして敗戦という経験を持つ我々にもわかる重さである。
ヒトラー最後の12日間」には同様の重さがある。正直、全編重い。
人類が何度も犯してしまう「戦争」という重い罪の十字架をこの映画を通じて担う羽目になる。それらは過去のことではない、今もあちこちで存在する罪でもある。