生命倫理のこと

秦の始皇帝はとにかく死ぬのが嫌だった。不老長寿の方法を求め、方士を雇いこんだり、死後の為の宮殿を造りつづけたり、死に囚われた困った人だ。徐福という方士はこの始皇帝のために東海の果てにある蓬莱を目指そうとする。東海には大きな蛤の吐く気が見せる幻想が水平線上に浮かぶ。徐福はその蜃気楼を目指し旅立つ。彼のその後を知るものはいない。しかしその蓬莱の地に浮かぶ島々には徐福の伝説が残る。
不老長寿。自らに科せられた生命の未来をコントロールしたいというのは古代からの願いであった。第五元素である賢者の石も不老不死の探求と密接に関わりがある。中国の宗教観の根底にも同様の欲望が散見できる。しかし現実はそううまくいくものでもないが、長い間人類はそれへの挑戦をその時代の文明に応じたやり方で探求してきた。
さて、uumin3さんがプレゼントに下さったエントリをまずはご紹介。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050629
■ Itary: Pluralism Takes Root(イタリア:多元主義の定着) 
 イタリアでの過去の医療倫理の議論はカトリック/非カトリックの対立軸で行われ
てきたのだが、最近になってその議論はより過激に、よりイデオロギー的に多様にな
ってきた。しかしながら、少なくともアカデミックな観点から見れば、カトリックの
ライターは未だ彼らの俗界のカウンターパートよりもアクティブである。カトリック
は彼らの強力な伝統と確固とした原則に信を置く傾向があり、しばしば新しいポジシ
ョンに注意を払わなすぎることや軽々しくそれらを不道徳(immoral)と決め付けて
しまうことについて批判される。確かに「対話」の時代、「aggiornamento」の時代
は終わったようであり、「教会」(Church)から強い立場(strong stands)の新し
い波が広がってきている。もしこれが続くようであれば、真の対話はドラスティック
に減っていき、予期せぬ帰結をもたらすだろう。

 しかしながら、一般に社会ではカトリシズムの影響は衰えつつあり、おそらくかつ
てしばしば主張されたようにはもう強くはないだろう。多くの人びとが生命倫理的な
問題に関して教会の意見(pronouncements)から独立した彼ら自身の意見を形成しつ
つあり、彼ら自身の「道徳的直観」に従って生きるようになってきているのだ。

教会の頭でっかちは筋金入りである。かつてベンジャミン・フランクリンが落雷のメカニズムを解明し、そのメカニズムを利用した避雷針がブームになったことがあるそうだ。ヨーロッパの建物で天に向かうような高いモノは教会である。ゴシックの尖塔など格好の雷の餌だ。ロレンツォ・メディチが死んだ夜、サンタ・マリア・デル・フィオーレのブレネレスキの作品である巨大クーポラの先端に、雷が落ち、尖塔が破壊された伝説は有名である。だから多くの街ではまず街の中心の聖堂の先端に避雷針を取り付けて欲しいと願ったのだが、カトリック教会は「自然をゆがませる行為は神に反する行為である」と拒絶したそうだ。
まったくもって上記のエピソードは現代のカトリック教会の生命倫理に通じる態度に似ていなくもない。
uumin3さんの訳してくださった論文では、「体外受精」「不妊と離婚」「安楽死と生命維持」「臓器移植」「AIDS」という項目に対しそれぞれ現代イタリアにおける議論のありようを簡潔にまとめて紹介していてくれる。少なくともイタリアではかなり真摯にこうした議論がなされているようである。
例えばわが国でも「少子化」の問題についての議論を読んでいると、何故かカトリック的発想の倫理観を持った人が多いことに気づかされる。ことに過激なジェンダー思想や過激なフェミニズムに反感を持つ人々は中絶の容認の拡大、女性が産むか産まないかを決定する方法などへの批判、代理母システムへの拒絶観などを示すことが多い。不妊治療をし続ける著名人への批判なども含め、生命を人間がコントロールすることへの嫌悪というのは、宗教に関係なくどこか存在するとはいえる。だからコントロールすることによる是非をきちんと識別したほうがいいんではないか?と思わなくもない。
始皇帝による不老不死のエピソードが肥大した自我に見えるように、科学によるバースコントロール、生命のコントロールもまた、科学そのものの自我が肥大しているようにも思える。「科学」もまた宗教めいた存在であり、それを絶対視すると恐ろしいことになるというのはついこの間の世紀末に多く語られたことではあるが、科学の持つ利点と、欠点、しかもプロメテウスの火となりかねないものを生み出す可能性を自覚しておかないとやはり怖い。
個々に挙げられた案件の、希望と、負の側面とを、きちんと論考するべきなのだと、それは教会も世俗も、話し合い続けるべきであろう。少なくとも避雷針はいまやどの教会の尖塔にもつけられている。


ところで、科学絶対の人の宗教への侮蔑感というのはいかんともしがたいと思う時がある。わたくしから見ると「科学」もまた仮説に満ちた「幻想」に彩られたものと映るのだが、科学者はそうは思わないらしい。
こういう人とか↓

人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上〉 (新潮文庫)

人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上〉 (新潮文庫)

まあ。声を大にして言いたくなる環境もあるんだろうケド、この本を読むとこの人もかなり鼻息の荒いトンデモなおっさんだなと思わなくもない。他にも科学者から見た宗教の罵倒本には事欠かないが、そりゃ科学者の価値で宗教の価値を諮ればそうだろう。しかしそもそも宗教は科学の前提に立っていない。ぜんぜん次元が違うのだ。だから哲学的な科学者などもいたりして、その辺りの距離感を分かっている人もきちんと存在している。セーガンは単に科学原理主義なんだろうよ。(もっとも、セーガンはかなり真摯に論考しているので、これはこれで読み応えはあります)
で木走さんの以下のエントリのコメント欄も「宗教の定義」ですごいことになっている。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050627
宗教を幻想だと言い切る威勢のいい青龍さんと、なんだそりゃ?と憤った普段は穏やかなくまりんさんとの闘いが面白・・・いや、非常に真摯な議論が楽しめます。
さて、わたくしはくまりんさんの仰ることに激しくうなづいてしまいますが、しかしまぁ宗教が「幻想である」というのはある視点から立てばその通りで、それ自体は別にムカつきはしません。ただわたくしにとっては、神の存在はリアルな実存で言葉に置き換えたり実証するシロモノと違うリアリズムで認識されていて、例えば、青龍さんのご意見は美術を評論家が論ずるような空虚さを感じなくもないですね。
ですが、わたくしは青龍さんの根底にある宗教に対する無意識の拒絶のほうを憂えます。まさに生命倫理の問題は互いの拒絶観が根底に存在することで先に進まなくなる場面も多いなどと思うのですね。それはカトリック教会の一部の馬鹿も同様ですが、宗教を低く見ていないといいながら拒絶する態度も鏡のように同じだと思うのです。