ゲーム環境

ファミコンが出たのは大学の時で、ああいうゲームをやるのはオタクな人々でないと無理だと思っていた。大学院の時にベンチャービジネスの一環として、ファミコンネタを考えろという仕事を貰い、ファミコンの機体と共に渡されたソフトがマリオブラザーズドラクエだった。以来、RPGにハマりまくり秋葉原電器店に並んだり、ウィザードリィで全ての魔法を唱える事の出来る忍者LV99を育てたりして友人から呆れられていたですね。懐かしい思い出です。以後所有して試したゲーム機は、ディスクシステムスーパーファミコン、プレステ、ニンテンドー64ドリキャス、プレステ2などですが、このうち自分で買ったのはスーパーファミコンと、プレステ2だけだ。我ながら乞食のごときゲーム人生だ。
最近のゲームは最後までたどり着かない。ポリゴンゲームになってから途中で飽きてしまう。歳を取ったからだという気がしていたけど、もしかしたらやっぱり最近のゲームはつまらないのかもしれないです。FF10も途中で投げてしまいました。ラスボスと戦いに行く前ぐらいまで進んでるはずなんですがやる気が起きない。なのにスーパーファミコンの時代のFFはまたやりたいなぁなどと思ったりします。でも、どこが違うんだろう?本文と関係なさ過ぎの要素のウエイトが大きいからか?
ビクトル・ユーゴーの小説や、ドストエフスキーの小説を読むと、ストーリィとは関係ない、作者の蘊蓄とか論考とかがだらだら出てきて途中で読むのをやめてしまい、結局、読破できない・・というアレに似ている気もします。あと、スタンダールの「パルムの僧院」のごとく主人公が「ただのDQN」と思うような小説だと読むのが苦痛になってしまい上巻だけで下巻までたどり着かないんですが、最近のFFの主人公なども思春期を永遠に脱していないような後ろ向きのDQNという設定だとやはり苦痛になってしまうのかもなぁ・・・。
ただ、団塊の世代のエディトリアル・デザイナーN氏がFF10にハマっていて、以前、飲んだ時「とことん育てあげ、激しく強くなった主人公でボスをボコボコにして溜飲を下げる」ことについて熱く語られた時、ユーザーによる個体差があるのかもしれないとは思いました。