死者と生者の間にあるもの・7

木走さんのブログでpaf/pafさんから以下のような質問をいただいた。
コメント欄では書ききらないような深い内容になりそうなので、こちらで応答することにします。

予備知識ゼロですので、お手数ですがさらにお伺い致します。キリスト教には靖国神社でよくいわれる
「亡くなった人が招魂される場所」&「亡くなった方に報告できる場所」という概念がないのでしょうか? 

カトリック正教会といった古い教派の場合、ミサ(カトリックの場合毎日行われる)や聖体礼儀と呼ばれる礼拝があり、それ自体が「全ての死者の為の祈り」となっています。またカトリックの場合ですが「意向ミサ」と呼ばれるものがあり、特定の亡くなられた方の為に祈るという場合があります。たとえば「戦争で戦い亡くなった兄弟の為のミサ」というものを誰かが望めば、その時、行われるミサはそういう性質のものになります。ミサは死者と生者との対話の場でもありますが、教会自体は靖国のように「英霊」に特化されるものではありません。プロテスタント諸派の場合どのようになっているかは判りませんが、やはり礼拝中に祈るということはあるかもしれません。

プロテスタント(特に改革派)で死者の為に祈るという概念が薄れたのはカトリック教会の煉獄への批判から生じています。「聖書のみ」の立場ではマタイ書に記されたイエスの「死者は死者に葬らせろ」という言葉が重要になり、カルヴァンが死者の為に祈った信者を罰したという伝承を聞きます。しかし亡くなった家族や友人のことを思って祈るということはあるでしょう。

アメリカ大統領就任時に聖書に誓いを立てること。いまだ争いの種となっているキリスト教の聖地(お墓でしょうか?)。宗教が政治を動かした十字軍。先頃亡くなられたローマ法王の葬儀とお墓参り(宗派をこえてキリスト教を信仰する人々の価値観・良心・道徳の共有と政治との繋がり)。イエス・キリストの服とか高弟の遺骨を大切にしてお参りすること(仏教も同じですね)等々。お手数ですがそのあたりをできれば教えていただければと。

「聖遺物」ですね。今日ではかなり廃れていますが、まず聖堂そのものが本来は聖人の墓地に立つものという概念がありましたね。ヴァチカンのサン・ピエトロはペテロの墓地の上に立っています。聖なる死者は天国にいて生きている者の為に働いていると考えられていました。「聖人」とはそういう存在で今もそのように考えています。また信者達は聖堂内もしくは地下の納骨堂、教会の敷地内に葬られるということが重要でした。しかし英霊だからという括りではなく、寄進者達や聖堂を支えてきた人々、市や街、村に貢献した人々などは特に目立つ聖堂内に葬られました。ルネッサンス期などは画家の墓や学者の墓が聖堂内に見られるのはその為です。聖堂にそういう人が葬られていることは街の誇りだったのですね。現代ではそういう習慣はほとんど廃れましたが、今も納骨堂を持つ教会もありますし、修道会なども修道者のための墓地を持っています。また、靖国のような御霊信仰も見方を変えるならば、死者が生者のために働く(鎮護)ともいえるので一種の聖人と言えるかもしれません。
尚、聖遺物に関してはたいへんに土俗的で、異教的な存在でもある為に今日ではあまり顧みられません。(そもそもノアの箱船を作れそうなほどの十字架とか嘘臭いしねぇ)ただ中世ではマジに信じていて、その文化が面白いので、個人的に信仰とは別に興味はあります。

政治とのかかわりですが、これはヨーロッパ史、全てを振り返らねばなりません。ヨーロッパには3つの身分があり、俗世の支配者である「貴族」と霊的支配者である「教会」、そして「民衆」です。この「貴族」と「教会」は時に協力しあい、時に対立しながら歴史を刻んできました。皇帝(神聖ローマ帝国)と教皇は永らく戦い続け、イタリアやドイツなどの中世史のほとんどはその歴史といってもいいでしょう。近代になってから教会の力は急速に衰え、フランスは教会からの(また、王からの)介入を赦さない「大衆の政府」を目指したのはフランス革命を発端とした歴史が知る通りです。ですから彼らの政教分離は徹底しています。ここに到るまでに実に数百年近くかかっていると言ってもいいかもしれません。

さらに予備知識ゼロですので、靖国神社って普通の神社とどこが決定的に違うのでしょうか? 靖国神社北欧神話でいうところの「ヴァルハラ」とはどうなのでしょうか?書いてて気づいたのですが「”国に尽くして”亡くなった人が招魂される場所」&「”国に尽くして”亡くなった方に報告できる場所」という「国に尽くして(直接政治と結びついていますね)」という点がポイントなのでしょうか?

靖国も、ヴァルハラも、「英霊に特化」された宗教施設(ヴァルハラの場合実存はしていないけど)であるのでかなり特殊ですね。仏教もキリスト教もそのような「寺社」や「聖堂」は持たないと思います。ただ、祈りの習慣はあります。

靖国の問題には幾つものキーポイントがあります。

1・英霊を祈る施設としての靖国そのものの是非
2・A級戦犯を祈ることの是非
3・首相が祈ることの是非
4・首相の祈りは公私どちらであるか?
5・この問題は内政問題か?
6・戦犯に祈ることは戦争を反省をしていないということなのか?

1.あるいは2に関しては宗教的問題であり私は存在自体になんの問題を感じません。キリスト教でも罪を犯したから祈りの対象から外されるということはありません。(ただキリスト教の祈りと靖国の祈りは根本的な性質は違いますね)問題は4がどういう位置づけになるかが難しくそれによって3が決まります。しかしこれらは法の範囲です。そしてこれは極めて内政の問題ですが、6によって他国に与える影響は大きいようです。6の概念は外国の方に判ってもらうのは難しい感覚でもあるために、敗戦国の我々にとっては非常に不利な状況ではあると思います。

個人的には政治には政教分離が望ましいですが、日本には天皇制があり、私自身は天皇制を是としている立場ですので、そう原理的に物事を解釈したくはないですね。