死者と生者の間にあるもの・4

先日書いた、中国の紙銭の習慣を調べていて面白い記述を見付けた。
中国の清明節における様々な歳時を紹介している。

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200504/festival.htm
清明節は毎年、4月5日前後である。この日は、人々が墓に参って先祖を祭り、
野山に出かけて春の遊びをする民間の祭日である。

与論島も歳事は旧暦である。清明節のこの時期の祭りで目立つものは「浜下り」大潮の時潮の引いた浜辺で遊びをする。島中が半ドンになる。中国ではこの清明節に墓参りをする。その時紙銭をたくさん焚いて先祖のあの世のお金にする。清明節ともなると不始末で山火事が起きることも多いらしい。

【中国】清明節:墓参り火の用心「紙銭焼いても山焼くな」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050405-00000013-scn-int
火の不利末から各地で山火事が多発。湖南(こなん)省・懐化(かいか)市でも、約6.7ヘクタールの
山林が焼け、森林警察や解放軍の兵士たちが消火活動に追われた。「墓参り 金は焼いても 山焼くな」 
中国新聞社が伝えた。

政府も開放政策で既存の伝統宗教には寛容になったらしい。そのお陰でこんな心配も起きるようだ。
さて、清明節の習慣で注目したのはまずこの記述。

清明節のころは、各地にそれぞれ特色ある祭りの食品がある。

広東省客家の山村では、清明節の前、村の娘さんたちが手に籠を下げて、野原から艾(ヨモギ
の若葉を摘んでくる。これを洗ってから、水に浸したモチゴメの中に入れる。さらにこれを石臼で
粉にする。それに黒砂糖の汁を混ぜ、蒸して、青緑の色をした「艾 」(ヨモギ餅)を作る。

与論島の伝統にもこの節句(浜下り)の時期によもぎ餅をたべる習慣がある。ムーチーなどと呼ぶ素朴な深い翠の餅が近所に配られる。私も色々な方からいただいたが、作り方はまったく同じ。この時期になると島の人はフーチバ積みに性を出す。その辺に生えているし香りも高いので、山羊汁などにも使われるのだが、わたしはこの素朴な餠がすごく好きで、冷凍庫に入れて保存し、仕事の合間に齧っていましたよ。この米の粉を使ったよもぎ餅は奄美や沖縄にもある習慣だ。
紙銭の習慣は与論にはないが、宮古などにはあるらしい。この琉球弧一帯が中国と大和の中間地点であることを改めて知る。
北は少しまた違う。

麦の産地である北方では清明節の前、各地の農家の主婦たちが小麦粉で小鳥の形をしたお菓子を作る。

この鳥のお菓子にはこんなエピソードが

小麦粉で作った小鳥を「子推燕」と呼ぶ。それは、今から2000年前の晋国の家臣だった介子推を記念するも
のと伝えられている。

 介子推は宮廷で政変があった後、晋の太子であった重耳に従って他国を流亡し、多くの艱難辛苦を嘗め尽
くした。19年後、重耳は国に戻り、国の政治を取り仕切り、さらに晋の文公となった。しかし彼は、多くの
家臣に知行や爵位を与えて賞したが、介子推のことは忘れてしまった。介子推は、母親とともに綿山に隠居
した。
 後に晋の文公は、介子推のことを思い出し、人を派遣して、彼に山を下って封を受けるよう求めたが、実
現しなかった。そこで晋の文公は、また人を派して、火を放って山を焼かせ、彼に下山を迫ったが、介子推
は母親と焼死しても、山を下りようとはしなかったのである。
 晋の文公は、介子推を記念するために、一日中火を焚くことを禁止し、人々は冷飯を食べなければならな
い日を設けた。これが、清明節の前の寒食節である。

 実は、寒食節は、春と秋に、木をすり合わせて種火をとった昔の習慣にその起源を発する。当時、支配者
は年に二回、種火を取って人民に配ったが、新しい火種を起こす一カ月前からは、火を使うことを禁じた。
だから最初は、火を使わず冷たいものを食べる寒食の期間は一カ月間もあり、人々の健康に大きな影響を
与えた。

 このため、三国時代の魏の曹操(155〜220年)は、陋習を改革するよう命令し、寒食の期間を三日間に
し、後に一日に減らした。唐の時代になると、朝廷は寒食節を行わないよう命じた。しかし民間では、禁止
されても寒食節はなくならず、清明節の中に融けこんだ。北方の「子推燕」や南方の「青団」は、寒食禁止
の名残りである。

介子推というと我が父が「超カッコいい」と絶賛する剣士です。重耳さん・・忘れるなんて酷いです。うっかりくんにも程がある上に火をつけて追い出そうなんざ、なに考えているんだか。その超カッコいい彼を偲んで作られたという「寒食節」という習慣が面白い。清明節はここぞとばかりにご馳走を作るのだが、その前に我慢の時期がある。実はカトリックの復活祭もこの清明節にほぼ重なる。復活祭を迎えるにあたっての四旬節は、イエスの受難を思い、食を断ったり、肉食をしないなど、食に対する制約がある。昨今はあまり厳密には守られないが昔はかなりきちんと守っていたので、四旬節に突入する前の謝肉祭(カーニバル)などを盛大に祝った。この世ならざるものに思いを馳せ、通常の食を断つという習慣が東西で同じような時期に存在したというのも面白い。

食を断つという行為には、霊的なものとの交感をよくするというので色々な宗教の修養に採り入れられている。仏教でも禅の修業で一汁一菜を守る。魚や肉を一切口にしない。以前、京都の東福寺という禅寺で、父の友人のF老師のご好意で精進料理をご馳走になったことがある。修道に励む痩せこけた修行僧が沢山いるこの寺をあずかるF老師は太っていた・・・のは置いておいて、老師に「殺生を避けると言われる精進料理だが、植物も生きていると思うんだが」と質問をぶつけてみた。曰く「それはおもて向きの理由でね。」「実は肉断ちするとこれが大層洗脳しやすいんですよ。修行僧が空腹であるのも同じで、まことに性が従順になると申しますか。」などと流石は禅寺坊主。人を食った回答が返ってきた。しかしF老師の体験では、かつて老師がまだ修行僧だった頃に空腹に耐えかね、上長に隠れこっそりと僧房を抜け出し、焼き肉をたらふく食べたことがあったという。その晩、F老師は堪え難い煩悩に悩まされ、一睡も出来ず、以来、肉を口にするのはやめたという。(修道終了後は知りませんが)

エスは荒野に出て40日間彷徨ったという。空腹になった状態で砂漠に出ると幻影を色々見るようだ。イエスに続く多くの聖者達もまた砂漠へと分け入ってこの世ならざるものと出くわした。グリューネヴァルトの絵に見る聖アントニウスの誘惑の話は有名である。かつて砂漠は悪魔の跳梁する異界と考えられていたようだ。アントニウスと同じような伝承は聖マカリウスなどにも見られる。13世紀の聖人、聖フランシスコは砂漠ではなく山へと入り込む。どこでも山。悩むとすぐお近くの岩山には入り込んでしまう変な人だった。そこで祈りと石を枕とする生活をする。そして聖フランシスコはラ・ヴェルナ山でセラフィムと出会い、聖痕を受ける。ラ・ヴェルナの聖フランシスコの祈ったといわれる場所はひじょうにストイックな空気と、確かに霊的な何ごとかに満ちていた。多くのフランシスコ会の修道僧がそこで修業をしている。そういえばフランシスコ会もなぜか年齢が行くと太る人が多い。

絵を描く時もなるべく空腹が望ましい。昔、兄がまだ小学生だった頃に、食が細いのでうちの親が咎めたことがある。兄は「満腹になるまで食べると頭が馬鹿になる」と言い返したそうだ。かわいくない子供であるが、確かにそうだ。満腹になるといきなり仕事をする気がしなくなる。直感が鈍くなる。だから仕事をする時はよく断食をする。身体が断食に慣れると燃費がよくなるらしく、実は太る。困ったものだ。

◆酒戒について
uumin3さんが以下の回答を下さいました。

不許葷酒入山門くんしゅさんもんにいるをゆるさず
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050526#p2 

禅に於ける戒の話です。
ネギ系(ニラやニンニク)がだめというのは意外でしたが、実は与論の濃いタマネギを食べて何日も苦しんだ私には良く判ります。ネギ系には警戒します。島らっきょうもうっかり口にするとしばらくダメになります。酒に酔うのより実は辛い。
小烏丸さんの疑問も詳しく説明して下さっております。ご覧下さい。