死者と生者の間にあるもの

宗教というのはおよそこの世ならざるものを語るものだったりする。あの世とこの世を繋ぐものであり、死者の為に祈る。チベット仏教の「死者の書」はまさにあの世に旅立たんとする人を送り出すための祈りであり、命が尽きたあとの魂を正しい方向へと導く。多くの日本の仏教も「葬式仏教」などと揶揄されているが、葬式は亡くなられた方のあの世の平安を祈る重要な儀式だ。そして盆や彼岸には死者が家へ帰ってくると言われている。僧侶に読経を頼み、死者を祈る習慣は昔から伝えられてきた日常の光景だった。その時、家族は死者を思い起こす。
教皇ベネディクト16世がまだラッツィンガー枢機卿だった時代にインタビューを受けた書を読んだ。ラッツィのことだから当然コテコテである。ラッツィはこのインタビューで、今の世は死者を忘れてしまっていることを嘆いている。カトリックでもそういう傾向があることに怒っている。ミサはまさにその死者と聖者を繋ぐ祈りでもある。式文にもそうある。そして死者の世界には多くの聖人達が集い、今もこの世の為に働いているのだ。他者の為に祈るという習慣はこの世だろうがあの世だろうが関係ない。だから昔の人は当り前にそう思っていたので、簡単に聖人に頼みごとをする。

学び合いの会
http://www.geocities.jp/amsf_stm/index.htm

カトリックは第2バチカン公会議というターニングポイントを迎え、多くの改革に乗り出した。硬直してしまった信仰を再び活性化しようという試みだった。多くの実験が行われたが、今その実験結果があちこちで現れている。中には失敗したものすらある。現場の司祭や修道者達は悩んでいる。その反省の過程を上記のサイトで読むことが出来る。彼らの直面した揺らぎや悩みが書かれている。

http://www.geocities.jp/amsf_stm/untitled_56htm.htm
横のつながりで社会参加のプログラムを作って行くことが必要になっている。「神の国」つくりのプ
ログラムを話し合って明らかにする。今の教会は自己完結型になっている。司祭と信徒の関係しか生
まれない。修道院治外法権の中にいる。聖俗の問題では聖の氾濫状態であると思う。信仰教育の問
題も今の制度では子供たちを純粋培養することしか考えていないみたいである。教え方も司祭との一
対一の対応で行われている。典礼の面でも儀式偏重が見られる。秘蹟の共有が少ない。ミサのしるし
理解にも不十分さが見られる。共同体のしるしとしての面を考え直す必要がある。ゆるしの秘蹟も聴
罪司祭を通してしか与えられない。司祭が信徒の数に比べて極端に少ない地域などを思うとこのまま
で良いのかなと考えてしまう。共同体としてゆるしあうかたちが出来ても良いのではないかと思われる。
これらの問題から派生するものとしては、官僚制、司教の選任方法の民主化、司祭の任期制、独身制、
終身制、女性司祭、政治や社会正義へのアレルギー、聖人、聖域、聖職といった事柄に過剰に反応して
いる。祝福はなんでしょうか。車も祝福を受けている。司祭の生きがいの問題もあるでしょう。
最後のまとめ、歴史のなかで作られてきた教会を少しずつ修正しながら原点に戻り、人々からの信頼を
取り戻すことが大切だと思う。急激には出来ないので教会の中の理不尽な事を「希望を持った意識改革」
で変えてゆくことではないでしょうか。教会の民主化の話が出ますが「神との関係」で考えるのではなく
「人間同士の関係」のなかで考えることだとおもわれます。「神との関係」を取り戻すことが「民主化」
だと思います。
現実の問題を幾つか挙げておきます。自分の小教区ではパイプオルガンを購入しようとしています。教
会費の数年分の費用が必要です。聖水がないのでそれを造ろうという話もあります。私は反対していま
す。教会はきらびやかなところである必要はないとおもうのです。「みことばの祭儀」が嫌いな司祭が
います何が何でも「ミサ」を行うのです。「ミサ」ばかりの教会でよいのでしょうか、それが私の問題
提起です。

ある神父様のぼやきのようです。

これを読んで驚くのは、既に「宗教」でなくなりつつあるカトリックの現場意識です。特にこれが司祭側から発した言葉であるという異常さです。我々日常に生きるものはこのように悩むことはないのですが、何故、司祭は悩むのか?我々は日常に場があり、そこでイエスの教えを実践できます。そして教会に行き霊的な恵みをもらい、再び世俗に帰る。聖書を読んだり、教えを読んだり、祈ったりすることは日常でも出来ます。ではなぜあえて教会と結びつきたいかというとやはり聖域の存在なんですね。ミサという聖なるものにあずかり、日常ともすると忘れがちな神と出会うことが出来るからです。

しかし現場の司祭はそれ以外やることが無いと単なる役立たずです。実はそんなはずはないんですがそう思ってしまっている司祭が多いということなんでしょう。しかしその聖域を聖なるものに保つ為の努力をしようと思ったらそれはそれで実は大変なことだと思うのですね。片手間で出来ることではない。聖域の意義を探求したり、各秘跡を行うにしてもそれへの理解が必要でありますから常に学んでいなくてはならない、そして教区民の霊的問題に気を配っていたら案外時間がないと思うのです。師匠、濱ちゃんも信徒に夜中に呼び出されたり、訪ねてくる人の悩みに応対したり、散らばっている信者で来れない方を訪問したり、新たに来た信徒の勉強をみたり、子供の学校につきあったり、時おり訊ねてくるホームレスにご飯を作ったりしていて、365日休みがとれない為に年に一度必ずぶっ倒れたりしています。(まぁ、司牧の現場以外に抱えてる仕事も多すぎるので)

しかし最近は司祭は小教区の問題より社会問題に参加することに意義を持っているようで、どんどんそういうことに参加していくうちに今度は「忙しい」「教会のことは信徒で出来るだろう」と小教区が放置されている状態です。信者さんが訊ねていっても嫌な顔をされたり、どんどん結びつきが希薄になっています。

上記のぼやきなどを読んでいると、結局、自らのアイディンティティの揺らぎゆえの悩みにしか見えないんですね。そして司祭の仕事というものを過小評価しすぎている。ことに「聖」という問題が過小評価され過ぎるから起きた悩みだと思えます。

その点、仏教の僧侶は肝が坐っているのか、案外、悩まずこなしている方も多い・・・と、思っていたのですが、やはり多くの悩みを抱えておられるようです。

本物の宗教って何?
http://www2.big.or.jp/~yba/Real/index.html 

非常に誠実に様々な設問に応答しておられます。
現実世界に生きる仏教。というものを問い続けておられるのですが、ここにも聖域の揺らぎを感じざるを得ません。このように語らねばならない時代に生きる聖職者の孤独を感じます。

しかし聖域が語りえぬ世界である「聖」を手放した時それはもう宗教ではなく、哲学や思想になるでしょう。しかし哲学や思想は「言葉」で語らねばなりません。身体で感じる神秘という、語りえぬものが無視される世界は、実は窮屈です。かつては大衆と宗教を結ぶ中にその語りえぬものの出会いが頻繁にありました。しかし今は多くの場でそれは価値なきものとして苔むしています。しかし、大衆は本能的にそれを求めるので、突飛な心霊現象に魅かれたり、超常現象を騒ぎ立てたり、それを利用する怪しい宗教にたやすく導かれてしまう。

伝統宗教が培ってきた聖域が堅牢に存在しないと、それを求める人を惑わせてしまうことになるわけです。政治運動なんかしてる場合じゃないです。足下の社会の現実世界の危機を伝統宗教が自ら生み出したといってもいいでしょうね。

ですから上記の神父のぼやきなどとよむと、きついようですが「神父である」ということを勘違いしているとしか思えないのです。あきらかに現代の世俗の視点での価値であり、語り得ぬ存在である「神と聖」という観点はすっかり抜け落ちています。社会学などといった世俗社会の価値とはまったく違う次元に存在するからこそ「聖」だと思うのですが、その世俗の視点から離れることが出来ないために悩んでしまうのですね。

聖域の意義は、例えば生者の死者の交流という超現実世界に存在するからこそ意義があると思うのです。観想修道会などただ祈ってるだけです。こういうのはあらゆる社会的な視野でみたらそりゃ無意味です。なにも生産していません。しかしこの世の為に祈ることに意義があると考えるからこそ大切なのです。それが「聖」を形作るのだと考えます。タイやチベットの仏教などはまさにそうした人々の聖なるものへの希望によって支えられています。彼らの祈りを支えることで、大衆は救われる。大衆は安心して社会に生きることが出来るのです。

これらの「聖域」に関する問題は、靖国参拝への問題にも通じるものがあるのでしょうね。世俗の価値ではかれば「そんなの辞めときゃいいじゃん」で済みますが、宗教というのはそういう次元でない為に難しくなっているのだと思います。小泉さんはそこをもっと説明したほうがいいと思いますね。「国務をあずかるものが、戦犯とされた人を祈る意義」ということを神学的に説明するのは神道的ではないのかもしれませんが、しかし今はそれが必要なのでしょう。