救いの光景

昨日、小林監禁王子の事件被害者が教会で救われた記事を紹介しましたが、教会が救いの為に機能しているという在るべき姿の光景にほっとさせられます。マザーテレサは、「遠くの隣人ではなく、まずは身近な隣人に目を向けなさい」とおっしゃっていたとのことです。実際、かなりの問題を抱え教会を訪ねてこられる方も多い。病気を抱えている方の数も多いです。教会が「社会運動に目を向けよ」と言っている目の前に救いを必要としている人がいて、そうした人々のことは省みられていない光景などにも出くわします。或る時、やはり悩みを抱えた女性がその悩みをうち明けたところ、教会の方に「貴方の悩みなどたいした事はない。世界にはもっと苦しんでいる人がいる」といわれ、より落ち込んでしまったという話を聞きました。酷い言葉だと思いました。
今の日本に於いて、驚くほど心の病や、そこまではいかないまでも生活の不安を抱えたり、将来への不安を抱えたりしている方は多い。そうした漠とした不安感の中で生きている人が多いという現実を教会は見つめたほうがいいと思うのですね。
社会において貧しくされた人はあちこちに、実は目の前にいる。などと思うのです。

斉藤さんが拘束されたことで思い出したのですが、以前やはりイラクでつかまった方が「自己責任」を問われた社会背景には、プロ市民への嫌悪がありましたね。斉藤曹長も自己の意志でそこに赴いたわけですから当然、自己責任なわけで家族もそれを認識しているようですが、「自己責任」を社会から問われた3人は家族の言質の異常さでした。
ボランティアで行く事自体は本来はまぁ斎藤さんと同じ「自己責任」を伴う行為ですし、目的自体は悪い事ではないだけに少々気の毒な印象も受けましたが、正直、当時は「馬鹿だ・・・」とは思いましたね。それは斉藤曹長と違い、あまりにも無防備そうな市民だったからですが、ボランティアの原則は自己の行動に於いて他者に迷惑をかけない心がけも必要だと思ったからです。ただ必要以上な叩きがヒートしていく現象は彼ら自身のおかれた状況から気の毒だと思ったものの、やはり彼らの事件を利用しようとするイデオロギーには腹が立ちましたね。
話はずれましたが、こうした批判の中でたびたび出てきたのがやはりマザーテレサのあの言葉でした。
イデオロギーへの反発だけではなく、日本の社会全体が抱える不安を直視せず、遠くに視点を向ける人々への「偽善」という図式に腹を立てている人が多いということをそれで知ったと申しますか。
遠くの世界の苦しむ人を助けるのは大切なことですが、あまりにも身近な人々がないがしろにされているのではないか。社会不安、増税、年金の問題。国内で多くの人が苦しみ、貧富の差が生じはじめているわけですが、そうした苦しみにあると、他者を思いやる余裕など生まれません。いくら綺麗ごとを言っても、それが人間の本性でしょうね。
ですが、まぁ、みじかな人の声を聞くことは誰にも出来ます。
辛くても、ぼやいているうちに解消出来る辛さもあるかもしれないし、誰かに聞いてもらえることで元気になる人もいるかもしれません。とにかく「生きる」というのは大変なことだと思うのです。
マザー・テレサのいう通り、そういうことからはじめる「救い」のわざがあるなどと思ったりします。


今日はユリアヌス先生の原稿からそういうことを考えてみたです。

A年三位一体の祝日
http://iulianus.exblog.jp/2729333/ 

◆追記
そういえば、師匠、濱ちゃんはカトリック教会内の政治活動家を嫌っている。けど、訪ねてきたホームレスに自分のご飯を半分あげてしまったり、行き場のないホームレス親子の面倒を見たり、毎日かかってくる心の病の人の電話を「15分ね」と時間を区切りながらも応対したり、とりあえず目の前にいる困っている人の手助けをしていた。ぶぅぶぅ文句も言っていたけど。ある時は腹を空かせたあまりに「飯はまだか!!」と怒り出すホームレスと喧嘩もしていた。「僕だってまだ、ご飯たべていないんだから、腹空いてるのは同じだ」とか言ってるし(以前から不思議だが、腹を空かせた男ってのはどうしてすぐ腹を立てるのだろう)とにかく困っている人には実は面倒見がいい。
言葉ではなにも言わないのだけれど、行いはまさに目の前にある救いに敏感で、こういう方は尊敬しますです。