批判的ということ

わたくしがジェラルド・マイエラ像を教会に渡してほっとしていると同じ頃、ユリアヌス先生も私訳のキュンクを訳し終えてほっとしていたらしい。

http://iulianus.exblog.jp/2679822/

2005-5-7
今日、スイスの神学者ハンス・キュンクの"Das Christentum. Wesen und Geschichte.
Die religioese Situation der Zeit", Piper, 1994を訳し終えた。本文だけであるが、906
ページにもなる大著である。

まことにお疲れ様です。私訳で研究用とのことですが、今後の研究成果を期待するです。
キュンクのこの著は、M神父によると「物議をかもし出した著作であるが優れている」とのこと。ユリアヌス先生の引用から判る通り、かなり批判的な立場で書いています。当然当時のバチカンは受け入れがたい考えとして退けました。

キリスト教キリスト教的になるべきである。これは2000年期に対する未来の展望に他ならない。
ローマ的システム、オーソドックス的伝統主義、そしてプロテスタントファンダメンタリズム
これらはキリスト教信仰の歴史的な現象である。キリスト教信仰は常にそれらを与えたわけではなく、
それらはある日消滅するだろう。なぜ?キリスト教の本質にそれらは属していないからだ!

激しく、勇ましいです。

こうした批判的な視点というのは、ともするとアイディンティティを揺るがせるものですが、しかし視点としてこのような批判要素を自らに向けるというのも大切だと思います。ローマ的な教会の限界を知るというのはそれを用いる側が知ってなければならないと思うからです。ただ、逆にこうしたものを応用し、解体していこうとする方向にも疑念はあります。何故ならばキュンク的な普遍性の理論だけではなく、伝統性の中にもある種の真理はあると思うので。ですから敢て確信犯的に選び取る手法というものも存在します。ですから今度は逆にキュンクのこの思想を批判的に見直す視点も必要になるでしょう。キュンクと同じ目的「キリストへの回帰」のなかでラッツィは確信犯的にローマ手法を選び取ったわけで、この二人の思想の対立の緊張感こそ、実は面白いなどと傍観者は思います。

論の世界は辛辣で、断罪、破門という言葉に脅える人は多いですが、実のところ、こうした緊張感がないとクリエイティブなものは生まれないのかもしれない。今や教会を通じてしか思想を発する時代でもないわけで。アベラールと聖ベルナールの対決みたいだ。。などと思って見守ってみたいものです。

・・・・というわけで、このエントリーは実はユリアヌス先生へのエールだったり。
いつの時代も堂々と正面から勝負をかけるような勇ましい人は面白いやね。