批判的ということ

木走さんのエントリでメディアリテラシー論から、更に歴史認識の話に発展していました。

中国反日デモ〜中国の歴史教育について考察してみる
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050504 

歴史というものを認識するという時、どの立場に立つかで評価は変ります。中国、韓国、日本の昨今の国際問題はこれが焦点となっていますね。国家にしてもあるいは『宗教」にしても共同体の利益が優先される為にその視点はともすると護教的にならざるを得ないのが事実でしょう。それ自体を批判する場合はあきらかに目的が違う場合ですね。例えば純粋な学の世界ではそういう目的は脇に置いておかないと成立しえない。学そのものが目的なわけですからそのような立場的なものから自由にならざるを得ないわけです。ですから場合によっては批判的にならざるを得ない。(教皇ベネディクト16世がその手法を相対主義的だと批判しカトリック教会は闘わねばならないと主張するのは、そもそも「教会共同体を堅牢にし運営する」という風にその目的が違うからなわけです。)

わたくし自身は中国が、あるいは韓国が独自の歴史観をもつのは当然であると思うし、日本もまた独自のを持つのは当然であると思います。しかし国際交流上でそれを持ち出す場合、言葉の選び方や認識をいったん脇に置くという必要性はあるでしょうね。(これはいわゆるキリストギョーカイ的なエキュメニズムというシロモノに通じるわけですが。)ただ国家というのは特定の目的を持って動く集団で、目的に利害が絡めば問題はやはりおきてしまうわけです。例えば中国の場合は内政という問題が念頭にあり、またエネルギー問題があります。韓国の場合も海への進出がやはり根底の目的にあるようですし、中国、北朝鮮との結びつきの強化も視野にあるでしょう。そういう場合日本を批判し結束を強めるとか、自国の利益になる権利を主張するための裏付け(歴史)が必要が生じるわけです。

こうした時、我々はその目的を察知する必要はあるが、いちいちヒステリックに反応して煽られてもいけないなどと思います。いたずらに触発されることは結局よろしくない。泥仕合となり、本質が見えなくなる場合もあります。中国人のデモも大衆側のすべてが望んで行ったデモではないことは現地の人からの報告を読めばよく判ります。(あそこの国の大衆が本気になった時はトンでもすごい暴動になる)日本のマスコミによる大衆操作についても鋭敏にならないとよくないでしょうね。こういう場面で他国民への憎しみをかき立てるような愛国心を煽ったりするのも問題ですし、あるいは中国政府の抱える問題や目的はなにか?について考えねばならない場面での論点ずらしなどもあるでしょう。

同じことではJR西日本の報道に見ることは出来ます。結局撹乱しているのはマスコミで、まったく報道を読む時のリテラシーが問われてくる場面が多いです。煽られてJR職員に暴力を振るう人もいるそうです。

脱線事故後JR西管内 嫌がらせ70件 
http://www.yomiuri.co.jp/features/dassen/200505/da20050508_03.htm

乗務員ら殴られけられ

 JR福知山線脱線事故後、JR西日本管内で、運転席後方のガラスに「命」と印刷された紙が
張られたり、女性運転士がホームでけられ線路に落ちそうになったりする嫌がらせ行為が約70件も
相次いでいることが、7日わかった。事故以降も後を絶たないオーバーランや不祥事も影響している
とみられている。

JR職員を攻撃することが正義だと思い込む勘違いがいるようです。これは「反日が正義だ・愛国無罪」と思い込む中国人と同じでことの本質がどんどんずれてしまっていますね。こうした「情報」によって煽られる大衆というのは何処でもいるわけで、情報発信側の責任は重いと言えます。日本=悪、JR西日本=悪という構図が形成されています。単純な大衆は悪は倒さねばならないと考えてしまいます。その点において、仮想敵を置いた愛国的歴史認識だけでは一方的に洗脳された偏った認識を植え付けます。善悪という判断は実はつけることは難しい。立場によって変質する。ですが批判的に物事を見るというのは、善悪を決定づけることとは違います。

その辺りの混同に気をつけて教育をしないと、自虐史観とか愛国史観とかどっちか極端に偏ったことになってしまうとは思います。悪は打ち倒すべき存在ですが、実は悪など決定づけることなど誰も出来ないのです。

しかし「愛する」という思いが無くなると他国への人への愛のみならず、自国の隣人への愛すら無くなる場合がありますから難しいですね。カトリック教会においても批判的な立場の人が信徒へ冷たい視点を向けがちな場面をよく見ます。極端な例では以下のような思考も産みます。

http://homepage2.nifty.com/moon21/letter16.html
 本田神父は、低みに立つ者のまなざしと耳を持っている方だと思います。高みから見下ろしたり、
物申す姿勢ではなく、「低みに立つ神」の心をわが心として生きようとしている人だと感じます。
それは釜ヶ崎で学んだ、とても自然でやさしいふるまいに見えます。そこには「人間の尊厳を大切
にしよう」とする思いが行動に表れているのです。本田神父は、ときどき、「洗礼を受けたい」と
いう労働者の願いを聞くと、それに対して、「へたに信者になると、人間が小っちゃくなってしま
うから止めとき」と答えると言うそうです。信者になると、「俺はキリスト教信者だぞ」と変な自
尊心やエリート意識を持ってしまって、未信者の労働者を「あいつら」と呼ぶようになったり、以
前のように、純粋に神を求める心や、仲間を大切にする気持ちが自然に発露する機会が少なくなる
ことがあるからだそうです。 

本田神父は解放の神学の実践者で、非常に優れた方ですし、このような実践的な働きは尊敬に値すると思います。しかし残念ながら本田神父の視点は「信者」には厳しく、こうした彼の批判的な言動は教会外や教会への批判者にとっては痛快なものに感じるでしょうが、既に信者である人々に対しての愛と責任は感じられません。神父という職務においては信者に洗礼を授けることも一つの職務なのですから、その職務の結果を批判するというのは無責任(つまりそのような考え方の信徒を産み出したならばその思想そのものを修正する責任も司祭の仕事であるわけなので、ここではその指導の放棄を告白していることになる。)であり、特定の隣人へ背を向けた愛のない視点というしかないでしょう。こうした考え方に出くわすと、信者は否定される立場に置かれ、自虐的に、場合によってはより内向的になってしまいます。最終的に教会そのものを否定してしまう人も出てくるでしょうし、あるいは本来の本田神父が伝えたいメッセージに耳を塞ぐ人も出てしまうでしょう。方法論として間違っているいい例です。

所属するものへの責任と愛と、批判する視点とがうまく同居することは難しいのでしょうか?
わたくしは、そうは思いません。

関連ブログ

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http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-05-09-1
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謎の●流思考回路と行動様式。2
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/3526486.html
韓国の主観的歴史認識について、被害者史観の偏りの問題
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BOMB A HEAD!
http://d.hatena.ne.jp/lovekorea/20050317
在日コリアンの方からの視点で書かれた竹島/独島についてのつぶやき
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様々な立場の視点を知ることが出来ます。