聖なる普遍の教会

先日、司教の怪しからん呼びかけに腰を抜かしてから、まぁ色々考えたです。
たとえば様々な人が政治的なことに対し司教が具体的に口を出すことを嫌がっていたりする現状。バチカンが倫理について煩く口を出す現状。どちらもそれに同意するものにとっては居心地はいいだろうが、異なる考えを持つ者にとっては場合によっては激しい嫌悪を生み出す。それはそれぞれの思想、置かれた立場によって評価が変化する非普遍的なもので、地上の事柄は変容し続けることの証しでもあるなぁと思うのです。ですから教会がそこに拘泥するは分裂の危機すらもたらすと言えるのですね。しかし同時に教会は地上に存在するものであり、絶えずそのようなものに応答する、あるいは応答を要求させられたりする存在でもあるわけです。
教皇ベネディクト16世のニュースにおいて激しい賛否があり、リベラル、保守という視点で語られていたことにずっと違和感を感じていたのは、やはりそれが地上の俗な視点での結論でしかなかったからなんですね。しかし実際には、教会内ではリベラルと保守徒が互いに批判し続けたり、全共闘あがりの司教にいらぬ胡散臭い目を向けたくなったり、分裂の危機は絶えず存在します。

かつてアウグスチヌスが「神の国」という本を書いた時、教会の状況はやはりそのような危機にありました。ヴァンダル族の侵入。またキリスト教の根本教義に対する議論、キリスト教そのものへの無理解と誤解、様々な困難の中でキリスト「教会」というモノは何か?と問うたわけです。キリスト教が世俗に様々において分裂の危機を見た時、彼は「神の国」を彼岸に置いた。彼方に在る完全なる世界。それと地上の世界の現実。教会はその現実のただ中においては「神の国」を目指す意志を持つが同時に我々は様々な不和と不審、それによる分裂に絶えず晒されているわけです。それにおいては「地上の国」に生きている現実をも見つめざるを得ないということでもあるとは思いますね。教会は普遍へと向かう意志のある集団と考えるわけで、それはミサの言葉にもある「愛の完成に向かう」「旅する教会」としてあるように、しかしまた同時に「旅する」ということで未だ完成にないということをも告白しているのですね。ですから「導いて下さい」と祈り続けるわけです。


ラッツィンガーの著作「キリスト教入門」にこのような言葉があります。

ギリシャ語で定冠詞なく著されたはじめの)信経第三部は、(救済史の文脈によって理解された為に)まず神における第三位としての聖霊をさしているのではなくて、キリストを信奉する信者団体の歴史への神の賜物をさしているわけである。
(やがて三位一体論の発展と共に、信経を貫く記述はキリストの誕生から再臨までの歴史的に理解されるようになり、第三部の上記の個所は)
聖霊の賜物におけるキリスト教の物語の延長と解され、つまりキリストの到来と再臨との間の「終末」への指示と解されるようになった。この発展につれて、三位一体観は、もちろん一掃されたわけではなく、逆に洗礼時の質問(父と子と聖霊に対する3つの質問)も歴史のない彼岸的神ではなくて、我々に向けられた神に発せられた。こうして救世史観と三位一体との相互不干渉は、キリスト教思想の最古の特徴をなし、このことがだんだん忘れ去られたあげくのはて遂には、一方では神学的形而上学、他方では、歴史神学の分裂を招くに到った。以来この二つは、まったく別物として並列し、人は本体論的思弁にふけるか、反哲学的救世史神学に凝るかして、まことに悲劇的に、キリスト教思想の起源的一致を失ってしまう。(括弧は私の註「キリスト教入門」p223-224小林珍雄訳)

・・・・・・とまぁ、手厳しいです。
ラッツィは上記を踏まえ

キリスト教思想は、その出発点においては、単に「救世史的」にも「形而上学的」にも決められてはいずに、歴史と存在の一致によってしるしつけられていた。今日の神学研究は、改めてこの分裂に悩まされいるだけに、まさにこの点に、大きな任務が課せられている。

と、青きラッツィは決意しています。

彼の神学はまさに「キリストにおいて一致する」ことが念頭にあり、「典礼の精神」が秘跡の根源を見直そうということも含め、着座式の説教を読むと、教皇ベネディクト16世としてあらためて「神の国」をめざす聖なる普遍の教会についての彼の「教会論」を、実践的場に移そうとしているのでしょう。つまりそれは畢竟「キリストによって一致する」ことの再確認であるなどと思うのですね。ですからしまっちゃうおじさん的に「地上の国」のことと「神の国」のことなどについてもきちんとしておこうじゃないか。と、まぁそういうことだと思うわけです。

神学者がラッツィの同窓であった神学者ハンス・キュンクの「Das Christentum(キリスト教なるもの)」を自分の研究の為に訳していて、先日のやり取りを読んでいたなかで、キュンクのその著作から以下の言葉を下さいました。

キリスト教がキリスト後2000年期のうちに未来を持ち、この霊と信仰の共同体は、何らかの権威が一定の状況の中で決して誤らないし、誤謬をおかさないということではなく、あらゆる誤りと誤謬、罪と悪徳にも関わらず信仰者の共同体は聖霊を通してイエス・キリストの真理のうちにとどまるということに基づく「不可謬性」の固有の性質にふさわしいということをキリスト教徒は信頼する。」

キュンクは教皇の不可謬などに対し批判的立場ではありますが、ラッツィの主張とは最後の記述によって一致しているということを我々は知ることが出来ますね。このことから本質的にドイツのあの方達は結局同じ結論に達しているわけです。この光景においてもまた「普遍」とはなにかを我々は学ぶことが出来るわけで。

先日もコメント欄で書いたのですが「キリストによって一致するということ」の再確認を我々もしなければならないと思うのです。ですから日本の教会を代表する立場である司教への不審について、(地上における価値で批判することは出来ますから)彼の共産主義的方法論への批判はしても、彼自身はやはり一致する存在であることの再確認(つまりその手法に行き着いた根源的思想の見直しも含め)を同時にしなければならない。ということもあるわけです。

まぁ頑張りましょうです。

主よ
我をして御身の平和の道具とならしめたまえ
我をして憎しみあるところに愛をもたらしめたまえ
争いあるところにゆるしを
分裂あるところに一致を
疑いあるところに信仰を
誤りあるところに真理を
絶望あるところに希望を
悲しみあるところによろこびを
闇あるところに光をもたらしめたまえ

主よ
我をして慰めらるることを求めずして慰むることを求めしめ
理解さるることよりも理解することを
愛さるることよりも愛することを求めしめたまえ

そは 我等は自ら与うるがゆえに受け
赦すがゆえに赦され
己が身をすてて死するがゆえに
とこしえのいのちを得るものなればなり

一応フランシスカン的にこれ↑