{カトリック・その他]おまけ・教皇選挙報道にみたこととか

あんまり面白くないな。
でも、自由で過激な神学書が書けなくなったというのは気の毒だ。

「選ばれぬよう祈った」 新ローマ法王が心境語る
http://cnn.co.jp/world/CNN200504250017.html
バチカン??新ローマ法王に就任したベネディクト16世(78)は25日、法王選挙(コンクラーベ)の
際の心境を振り返り、「どうか選ばれないようにと祈りもしたが、今度ばかりは神に聞き入れられなかった
ようだ」と語った。祝福に集まったドイツ人信者らを前に、母国語のドイツ語で演説した。

法王は笑顔で信者との握手に応じた後、「私は静かで平和な晩年を送りたいと思っていた」と述懐。コンク
ラーベの最中、「どうかこのようなことはやめてください」と神に祈ったことを明かした。

教皇になるというのはマジに嫌なことらしい。これはほんとのようで、どの教皇もなった瞬間がっくり来るらしい。枢機卿というのは基本的になりたい奴には投票しないからね。

しっかし。神学というのは、過激なほど面白い。純粋知の世界でぎりぎりまで論を戦わせる光景ってのは、古代の教父に始まり、中世ではパリ大学からの伝統で、個人的には中世の神学世界のダイナミズムとか好きなんですけどね。現代でも断罪された神学者達(ボフさんとか)の極論も面白いが、ラッツィンガーのごとき、ごりごりの世俗に受けの悪そうな極論の神学者も面白い。こういう存在がないと全体のバランスが保てない。もしかしたら彼が教皇になってしまったのはカトリック世界の損失なんじゃないのだろうか。とか思ったり。

ローマ法王は95票 03年から後継へ動きと米誌
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050425-00000045-kyodo-int 

根回ししていたとか?上記のぼやきと反対のニュースだけど、なーんか元ネタはどこよ?と思う以前に、くだらない詮索だな。ヒトラーネタと並んでかなり下品だ。しかし、まぁ日本のマスコミは説教についてコメントするよりこういうのが好きらしい。しかたないか、キリスト教というよか国際連盟みたいなものとして勘違いしてるトコもあるし。でもまぁ、教皇はたしかに共同体の政治的立場で、選挙ってのもそういうもんだよね。教区をまとめるというのは世俗的なものだったりする。共同体に完全に清廉なものを期待するってのもね。そういう理想家は聖職者になると大抵やめてしまう。汚い世界を自分が引き受けられない理想家は結局、牧者にはなれない。なにがしかの共同体を維持する為にはマキャベリ的な思考が必要になる。それが統治するものの責任でもあると思うのだな。だから教会の統治者たる教皇は場合によってはそのもっとも汚れる部分を引き受ける覚悟もいる。

しかし、共同体の理念の純粋さはこういう形で現れる。
ローマ在住のユリアヌス先生が見た光景。
葬儀の弔問者や巡礼者に溢れ帰ったローマで、陰ながら淡々と働く人々がいたことを紹介している。

玉響のコロッセオ
http://iulianus.exblog.jp/tb/2595583
(前略)
このように多くのボランティアやローマ市当局の手厚いホスピタリティが背後にあったことを忘れては
ならない。そして、このホスピタリティこそ、古代教会から続くキリスト教のすばらしい伝統である。
教会は昔から病人や貧しい人たちのためだけでなく、旅人のためにも手厚い配慮をしてきた。中世の修
道院も旅人を無料で泊めたりしていた。ローマにはこの古代教会以来の伝統が今でも生きているのであ
る。ともすれば、テレビや新聞の写真に現れた感傷的なパパ・ボーイズや巡礼客の多さに目を奪われて
しまいがちであるが、彼らの背後にはボランティアや市当局のホスピタリティがあったのである。そし
て、それは教会の長い伝統の中で綿々と生き続けてきたものであり、まさに地に足の着いた信仰と言っ
てよいものであろう。一時的な感情の動きに流されるものではなく、生活の中に深く根ざしたローマの
人々の信仰をかいま見ることができるのではないだろうか。

理念を引き受けるのは個々の人々でもある。ローマ人は意外に冷ややかに受け止めていたようだが、しかしやるべきことは忘れない。私はこういう人々はすごいと思うよ。言葉より行うこと。それが出来る人をわたくしは無条件で尊敬してしまうのだ。
マスコミは見るべきものをなにも見ていないと思う。葬儀や就任式ににどんな人が来たとか、教皇のぼやきとか、選挙についてとか、根回ししてたニュースとかより、こういう人々がいたことに着目出来ないマスコミの視点も実は庶民の立場に立っていないと思ったりして。しかしこういうのはやはり聖域の視点なんだろうな。マスゴミは世俗的な視点で物事をはかってなんぼな価値世界だから。