「典礼の精神」ヨゼフ・ラッツィンガーを読む5

ロシアがまだソ連だった頃、シベリアを横断する鉄道でモスクワまでいった事がある。横浜から船で数日、津軽海峡を横切りナホトカに着いた。全てがくたびれ、なにもかも諦めたようなナホトカの町から鉄道で揺られ、一晩明けた翌日にハバロフスクに着いた。更にまた3日ほどかけて着いたのはイルクーツクという街だった。
それらの外国人に許された街を見て回る。見るべきものはどんな土地に行ってもたいていが神社仏閣なのはそのような宗教施設がその土地の伝統を教えてくれるからである。だからハバロフスクでもイルクーツクでもとりあえず教会に向かう。しかし共産主義国家で宗教は許されなかった。訪ねた教会はどれも廃屋だった。ただ教会の亡き骸が存在しているだけだ。かつてロシア正教が盛んだった時代はそこを多くの人が訊ねただろう。内部にはイコンがあり、香が焚かれ、蝋燭に火が灯され、正教固有の長い典礼が行われただろう。聖域の固有の濃密な空気を感じたに違いない。しかし、訪れた教会の内部は空疎で、感じるべきものがなにもなかった。イコンも奪い去られ、ただただ空っぽだった。壁に記憶されただろう祈りも既にそこには痕跡すら見いだせなかった。
そうした教会の外壁に何故か必ずといっていいほどイエスの顔を描いた壁画があった。唯一の痕跡。様式化された絵。広げられた布に描かれた巨大なイエスの顔。「ああ、ゴルゴダの丘を行くイエスにベロニカが差し出したあの布か」西洋絵画ではそれはたいてい聖ベロニカと共に描かれる。だから「ベロニカの布」と記憶していた。その後それは東方では「アケイロポイェトス(人の手で造られざる)」と呼ばれる伝統的な図像でもっとも古い全ての聖画の根源ともなったものだと知った。伝承ではベロニカではなく、病に侵されたエデッサの王がイエスに会いたいと願い、イエス自身が自らの顔をぬぐい像が記されたこの布「マンディリオン」を送ったというものだ。
それは東方のイコンのまなざしの全ての基礎である。

初期の聖画像のどれも、キリストの似顔絵のようなものを試みてはいません。むしろキリストはその意義に
おいて「寓意的な」聖画像に示されます。(中略)聖書全体から引き出された聖画像が初代キリスト教にとっ
て貴重なものとなったのは、羊飼いが同時にロゴスの寓意としても通じたからです。
(「典礼と精神」p128 ヨゼフ・ラッツィンガー 濱田了訳)

イコンに記されたイエスの顔は単なる人の肖像ではない。刻印されただけの顔ではない。受肉したみ言葉を象徴的に記すものである。イエス自身が自ら刻印し、人に与えた「人の手で描かれていない」聖画は人が「受け取る」ものでもある。ここには人と神との交感の基本的なあり方が存在する。