起源

7 キリスト教がその起源に出会った芸術は古典世界の成熟した実りであり、美的基準を表現したものであり、また同時にその価値を具体化したものです。信仰は、生活と思想の領域同様に芸術の領域においてもキリスト教徒に、この財産から無意識に受け取ることを許さない知性を負わせます。キリスト教的霊感による芸術はこうしてひそかに始まり、そして信仰の神秘とそれにより迫害という困難な時代に自覚し、そしてアイデンティティを確立する「象徴法則」とを表現するしるしを聖書に基づいてしっかりとつくるという信徒の必要性に緊密に結びつけられました。絵画及び造形芸術の最初のしるしである次の象徴を覚えていない人がいるでしょうか。魚、パン、牧者は神秘を呼び起こし、そして、ほとんど気づかないうちに新しい芸術のスケッチとなりました。
 コンスタンティヌスの勅令によりキリスト教徒が自由に表現できるようになったとき、芸術は信仰表現の特権的な流れになりました。壮大なバジリカ式の教会が花開き始めました。そこで、古代の異教的な建築様式は再興し、そして同時に新しい祭儀のために合わせられました。少なくともサン・ピエトロの古いバジリカ及びサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの古代のバジリカを思い出せないでしょうか。あるいはビザンツ芸術の輝きを通してユスティニアヌス帝の望んだ通りのコンスタンティノープルにあるハギア・ソフィア聖堂はどうでしょうか。
 建築が聖なる空間をデザインしているとき、神秘を観想し、そして素朴な人間に直接的な形でそれを示すことの必要性から絵画や造形芸術の最初の表現が徐々にあらわれてきました。同時に、言葉と音の芸術の最初の表現がわき出てきました。また、創作に関する多くのテーマの中にアウグスティヌスは「音楽論」を付け加えました。ヒラリウス、アンブロジウス、プルデンティウス、シリアのエフレム、ナジアンゾスのグレゴリオス、ノラのパオリヌス、またここで引用できないその他の人も、神学的だけでなく、文学的にも高い価値をしばしば持つキリスト教的詩を奨励しました。彼らの詩は古典から受け継いだ形式を利用し、また福音の純粋な清流に達しています。ノラのパオリヌスの聖なる詩は次のように効果的に述べています。「私たちの唯一の芸術は信仰で、そしてキリストは私たちの歌です」(12)。少し後で、大グレゴリウス教皇は、交唱集を編纂して、聖なる音楽の有機的発展のための基礎を置きました。そのために、それには彼の名が付けられています。霊感を受けた音の変化とともにグレゴリオ聖歌は何世紀もの間、聖なる秘義の典礼の時の教会の信仰の典型的な旋律表現になりました。「美」はこうして「真理」と結びつきました。なぜなら、芸術の道を通して魂は感覚的なものから永遠へと高揚させられるからです。
 この歩みの中で、困難な時がなかったわけではありません。キリスト教の神秘表現のテーマに関して、古代には「聖画像破壊論争」という名前で知られているつらい論争がありました。神の民の信心の中に既に広まっていた聖画像は暴力を伴う論争の対象になってしまいました。787年にニケーアで開かれた公会議は、聖画とその崇敬が認められることを決めましたが、信仰にとってだけでなく、文化それ自体にとっても歴史的な出来事でした。司教たちが論争を解決するために訴えた議論は受肉の神秘でした。もし神の子が目に見える現実世界に入ってこられ、見えるものと見えないものの間をご自分の人間性を媒介として橋を架けたのであるなら、類比的に、神秘表現は、神秘の感覚的覚醒のようにしるしの論理のうちに使用されうることが考えられます。イコンはそれ自体により敬われるのではなく、表現された主体に戻っていくものです。
(12) ? At nobis ars una fides et musica Christus ?: Carmen 20, 31: CCL 203, 144.
(13) Cfr GIOVANNI PAOLO II, Lett. ap. Duodecimum saeculum (4 dicembre 1987), 8-9: AAS 80 (1988), 247-249.

この単元ではイコンとそれにまつわる聖画像破壊運動(イコノクラスム)について触れられています。西方、東方、共に画像は非常に寓意的なものとして立ち現れたのですが、6世紀半ばに「マンディリオン」と呼ばれる画像が登場します。いわゆる聖骸布で「人の手によらないキリストの画像」であり、また同様の「アケイロポイェトス」と呼ばれるものも東方において出現します。これらはひじょうに伝承めいたものですが、聖書にある「私を見たものは、父を見たのである(ヨハネ14:9)」というイエスの言葉と結びつき一種の秘跡的な扱いで、あたかもこの画像を観るということが、聖体拝領の秘跡と同様であると考えられたようです。これが大層人気を集め瞬く間に広がりました。しかしこのような考えはおかしいということで反発を産みました。折しもイスラムの発展と共に、このような画像の存在自体がイスラムユダヤを挑発しているということでビザンツの皇帝はこれらを排除しようとしたのです。それがイコノクラスムへの経緯ですが、東方教会のイコンの肯定派はイコンの位置づけをより堅牢な神学で裏付けることになります。東方教会は最終的にイコンをより神秘的な位置づけに置きましたが、西方では教訓的、教育的な道具と見做していました。ヨハネ・パウロ2世はニケア公会議で決定された東方の主張を肯定し、それに準じた説明をしていますが、当時の西方教会カトリック)は寧ろそれに対し「キリストは絵画を通じて我々を救うのではない」と反発していたのです。この経緯と考え方についてはヨゼフ・ラッツィンガーが「典礼の精神」という本で書いていますのでご参照下さい。