解放の神学

わたくしは耶蘇なので、聖書をよく読本します。イエスは貧しい人々、虐げられた人々へ目をむけ、労ります。小さき人々の為に寄り添うのがイエスです。そう子供の頃からたたき込まれ、そのようなまなざしを持つ事が大切だと思っておりましたし、今もそうです。出自や生まれたもの、自然にあるがままのその人の状況を、一定の価値で測り、差別する。揶揄する。そういう行為は憎むべきことです。弱者をいたわる。これは当り前の倫理で、社会の律法で規定するべき問題ではなく、様々な社会で、伝統的にこういうのは宗教倫理の分野であったり、社会の慣習的な知恵として伝えられてきたりしました。どんな社会でも当然の倫理だと思うのですね。
ところが昨今はかつての強者と呼ばれるものが逆転して虐げられたりする場面などが往々にしてありますね。例えば弱者に目を向け過ぎ、また嫉みから、いわゆる「強者」と呼ばれるものを批判し、屈伏させるのは当然の権利とする行為。こういうのをニーチェなどはルサンチマンとして馬鹿にしましたが、日常にはよく見られる光景です。強者には弱者のことが判らないなどといいながら権利を振りかざす「人権屋」とか、「虐げられてきた」弱者なのだから強者が譲るのは当然なのだと開き直る場面。そういうのに度々出くわす事も多いですね。これでは互いのコミュニケーションがこれでは断絶してしまいます。いわば階級闘争的な、なにかを敵と見做していかねばならない思考は不幸です。
そもそもキリスト教では全ての民が神の前に平等であり、個々にあるのは互いの個性の違いに過ぎない。個性が違うから得意な場所と不得意な場所がある。色々な出自や立場によって付帯されていく個性もある。そうしたなかで個人に与えられた「賜物」を我々は神から付与されたものと考え、自分にとってそれはなにかを問い続ける。またそれぞれには他人には与えられたが自分には与えられていない賜物があるわけでその分際を知るということを祈りのうちに行う。キリスト教で求道するとはそういう事なのだと思うのです。だから付与された賜物を活かさない「怠惰」も他者に付与された賜物をうらやむ「嫉み」も自身が付与された賜物を必要以上に見せようとする「高慢」も罪となる。こうした違う個性がそれぞれの領域でベストを尽くし、また自分に付与されたもので他者に出来ない事を助けたりすることが大切である。と、そう考えるわけです。
しかし社会となると一応のルールが必要となる。世俗の法律がそこで運用されるわけです。そうなった場合は当然マジョリティに従う為に省みられない「個性」が生じてしまうんですね。そういう場面で聖域が敗者復活の概念を提示し聖と俗とがそのように補い合う関係で均衡が保たれていくのだと思うのです。ただ、その聖域にもまた独自のルールがあり、はみ出てしまうものがいる。だからマッチポンプといわれても常にはみ出していくものへのまなざしを忘れないように教会などでは教えていくので、こういうのは律法でなく個々の倫理感に任される臨機応変な分野として考えなくてはならず、またそのように教えられてきたと思います。これはイエスの律法主義への批判と「裁くな」という言葉に象徴されますね。
ところでカトリック教会で生まれた「解放の神学」というものがあります。これはいわば大きな社会によって生じる小さき立場の人の側に立つ視点を忘れないようにしよう。ということでして、例えば既成概念に拠ってないがしろにされてしまうような価値への気付きとそれの復権ということを求められます。こういう場面では自分自身の価値観をまず相対化してみていくという精神運動が必要となりますね。自分自身の中にあるあらゆる固定概念を知らないといけないわけです。そうしないと他者の立場という視点が持てないわけですから。自己の固定概念で推し量った世界は所詮主観でしかなく、他者の視点をもつというのはまず自己の概念を相対化しないことにはその距離感も他者の痛みの本質もわからなくなってしまうからです。
しかし現実にこれが応用される場面では、結局、その社会の権力によって生じた弱者救済活動。という一段階の場面で終了し、権力への批判や攻撃という単なる階級闘争として人と人が対立してしまうような構造で終了してしまうことが多々あります。現に南米ではこの解放の神学に鼓舞された司祭がゲリラ活動に身を投じ、教会から破門されてしまいます。確かに貧者達に目をむけ彼らの問題を解決したいというその正義感は南米の独自の政治状況にあって切実なものではあったでしょう。ですがその正義感で違う立場である「人間」に銃を向けるのはそれはキリスト教精神としてどうなのか?という疑問は起きますね。そもそもが「人と人が対立する」という考えはカトリックの価値ではよくないことなわけです。「弱者の側に立つ正義」に目がくらみ、自分自身が自分の価値の中で強者と弱者の位置を逆転させ、「敵」と見做す立場の人々をひたすら攻撃していく権利があると思い込むというまったくトンでもな結果になってしまうわけです。そこではおのれ自身が新たな「小さき人々」を創造していることに気付いていない。これではせっかくの「解放の神学」もただの「梗塞の神学」に堕してしまうでしょう。あらゆる価値から自分自身を「解き放つ」べく思考運動ではありえません。
全てのもの、あらゆる価値から解放され、彼岸の存在である神の前に「個」として立つことが求められる。実はこの営みは口で言うのは簡単ですが、本当は難しい。自分自身の立ち位置をはっきりと自覚して、あらゆる外界のことを把握しないと出来ない。
まぁ、求道はほんとに難しいです。