朝にまどろみ展覧会で悩み目覚める 夢の色

もっぱら、秋の展覧会の絵を描かねばならないのに気持ちがさぼり方向に行っている連休の島はトロピカル。リゾート環境ばっちり過ぎて怠け心を誘うのには困ったものである。

そんな今朝は、なぜか展覧会の最中で、展示する絵を仕上げたところ、ふとほこりを払おうとしたら絵が真っ白けになってしまったというおそろしい現象とか、展覧会がはじまったら、即座に全部の絵が売れてしまい、その後別な場所で巡回するつもりだったので絵をまた描かねばならないとがく然と恐怖するとか、しかし絵が売れたので充分大変にリッチな気分になったので、コンランショップみたいなところで、何故か山吹色と水色のバスローブのどちらを買おうとあれこれ頭を悩ませているという、へーんな夢をみた。願望と恐怖がそのままストレートに現れるあたりが情けない。しかもリッチな気分になったから買うものがバスローブってなぁ・・・何故?そんなにすごく欲しいかってぇとそうでもないというか、まぁ欲しいけど。そのうえ夢の中で、島で洗濯すると色が褪せるから山吹色はどうなんだろう?とか石灰度が強い水でもこのふわふわ感は保たれるんだろうか?というかなり生活観溢れる悩み方をしていた。
所詮小市民である。

ところで、佐藤亜紀が『掠奪美術館』で、概ねの人々は夢に色が着いてないらしいという事を書いている。

掠奪美術館

掠奪美術館

佐藤氏は夢に色が付いているそうなのだが、回りに色が付いている人がいなかったようである。私の夢はあきらかに色があるのが当り前なので、寧ろ色が無いという人が不思議である。どうやったらそんな夢が見れるんだろうか?というか白黒っぽい夢を見た時は、そのモノクロームな夢の中で象徴的な炎の赤をきわだたせる為の白黒だったとか、ラブクラフト風の物語な夢を見た時は、全てが青ずんでいて、明かりのみが黄色というコントラストがあるとか、そういう感じで、印象に深く残る。つまりそれ意外は普通に天然色。キドカラー。・・・なのでまぁ、夢うつつだとリアルなのか夢なのか判らなくて心臓に悪い。

しかしふと思ったのだが、わたくしがおガキ様の頃、家のテレビはずっと白黒であった。中学生3年生の頃まで白黒テレビ。しかも真空管の画面のガンメタル的な深緑によるモノトーン。世の中のほとんどの家庭がカラーテレビであった時代。しかもダイヤル式ではなく既にボタン式のテレビが出回っていた時代にだ。それぐらい我が家は電化製品を心底壊れるまで買い替えなかった。
しかしその記憶にある、子供の頃見たであろうアニメは何故かカラーで記憶されていたりする。どうも脳が白黒の映像をカラーに変換する機能を持っているようである。そういうわけで本当は白黒の夢を見ているはずなのに脳が勝手にカラー認識して変換しているんじゃあるまいか?
・・と、ここまで考えて、よく考えたら夢というのは単なる認識だけの存在なので、色つきの夢を認識しているわたくしは色つきの夢を見ているに過ぎないということであるな。
しかし逆に「夢は白黒」だと認識出来る世の中の概ねの人々というのはなんなのだろうか?という謎は依然として残る。佐藤亜紀は日常の認識の問題だというが、世の中の人々の多くが色はどうでもいいなどと思っていると思えんので、寧ろ、白黒と認識出来てしまう、いや白黒だと意識してしまうような無意識にあるものとはなんなんだろう???佐藤氏の話だとカラーテレビが当り前の世代、つまり若い人ほど色つき夢を見るらしいのだが、幼き時代に白黒テレビなぞ見ていた私にすると尚更以てよく判らなくなるのである。

更にフォルマと色彩という話があり、フォルマ、つまり形状をより重視する人々は白黒の夢を見るんであるまいかという。で、どうやらデッサン派と色彩派を分け「デッサン派はセザンヌとかピカソ」などとジャンル分けした御仁がいるらしい。ほほう。

なるほど、フォルマ重視の北斎(彼は肉筆彩色画の出来が版画に比すると悪い)やモノクロームの滲みに形象を見いだす雪舟なんかは白黒の夢を見たかもしれないが平安京の雅な世界の人の夢はカラーだったかもしれない。あやつらは色の象徴にやたら小煩い。速水御舟は渋い色の夢を見そうだが、菱田春草は天上のごとき色の夢を見そうだ。マーク・ロスコは色だけがだらだらと広がる夢を見るか?

因みに佐藤氏同様、私の夢にも匂いも触感も味覚ある。昨日の夢は(゚д゚)ウマーなパンを貪り食う夢であった。旨そうな魚の絵を描く北斎速水御舟は夢に味覚はついていそうな気がするな。
にしても、ふわふわの感触のよいバスローブはやはり欲しかった。山吹色はいらんけど。

・・・・などと考えながら、いい天気なので洗濯者を干していた。
今日の島は乾燥注意報も出るほどのトロピカル。