今日は絵を描く

島はうりずん。春の季節のまっただ中にある。でぃごの花は綻びて赤い花弁が枝に踊る。道端の向日葵がすっくと咲き、みどりは一層濃さを増して来た。風はまだ湿気を帯びていない。だから窓を開けて9月に控えた展覧会の絵を描いている。

マグリット・デュラスは映画の権利によって入った収入で田舎屋を買った。小説を書く為に。孤独になる為に。10年間、孤独の中で物語を書き続けた。

なにかを書く、或いはなにかを描くというのはこの世から切り離されないと出来ない時がある。

誰とも今日は口をきかなかったなという日が続く。
最近、時々パソ落ちしているのはそういう理由からであるし、日がな、本を読んでいるか絵を描いているかだ。

時々本当に誰からも切り離された孤独にいたくなる欲望がある。そしてそれは大変に贅沢な欲求であるというか、無名でいたくなる感覚、周縁にいたくなる欲望。誰からも省みられないところにいるような感覚が。それは実はすごく辛くて痛い。しかしそういうモノを求めたくなる時がある。

シャルル・ド・フコーという修道士がいて、彼は砂漠へと向い遊牧民と共に暮らした。

砂漠へと向かう。

天にも地にも生物がいない荒涼とした荒れ野への希求というのにすごく共感した覚えがある。
実際、生きて来たわずかな年月の中で起きた不幸の時に、慰められたのは砂丘であった。海岸に延々と続く砂ばかりの光景で慰められた。今も誰もいない浜辺にぼんやりといるのが好きだ。
何故島に来たのかと問われると返事に窮することがある。

結局、絵を描く為に来たんだろうな。

どうしようもなくそうせざるを得なかったゆえに、そして無意識にそんな選択をしていたんだろう。


今、描いているのはフランスの教会の為の聖母像だ。展覧会で公開したのち、渡すつもりだ。
知らない街の教会堂。そこで祈る人々のことは知らない。だけど想像しながら描いている。フランスという歴史を思いながら描いている。フランスの教会は革命によって多くの絵を、像を奪われた。なにも無くがらんとしたところが多い。

フランス革命は近代を産んだが多くを奪った。

奪われてしまったその大切ななにかを少しでも取り戻せるといいのだが。

そんな事を思いながら描いている。

一人のユダヤ人の貧しい女性と子供の肖像。

全ての人の多くの愚かさを知りながら尚祝福しようとする意志。そんなものが描けたらよいのにと思う。


こういうモノを描く時はほんとに切り離されないと描けない。




・・・・・・・・というわけで、時々落ちてます。済みません。