生命倫理を語ることの難しさ 追記あり、カトリック文献資料の紹介

カトリックは中絶を認めない。
これは動くことがない教えであるのは世俗も知るところであろう。当然ながら評判は悪い。

カトリック教徒であるが世俗に生きているわたくしなどは、東に「セクース愉し
んでたらガキ出来ちゃった。堕しちゃったよ。へへへ。またやろうね。」などと言ってる馬鹿がいたら「地獄に堕ちろ」と呪いの言葉を吐きたくもなるが、西に「産めばあなたの命に関わると言われているけど、堕胎は罪深いしどうしたら」などと悩める人がいたら「そんなことで罪とかいわないと思うよ。堕胎を受け入れた方がいいんでは?」などと言うであろう、たいへんにアンビバレントな態度でいる。本来、救いたるべき考えで為されていた考え方が、現実に応用するなら逆に救いとならない矛盾する事象が多々あるのがこの世の常である。聖と俗とは互いに補てんしあうものでもあるが互いに対立しあうものでもある。まこと人の世とは難しきもの也。「諸行無常也」などといいたくなる場面である。

まぁ先日のエイプリルネタってのはその辺りが念頭にあったんだな。

で、地下猫さんがカトリック生命倫理に対する概念を真っ向から批判しているエントリをあげておられたので関係者各位には是非読んでいただきたい。

○地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/
幾つか生命倫理や科学に関するエントリをあげてこられてきた地下猫さんがカトリック生命倫理に対して取り上げたエントリはこれ↓

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090402/1238683464
■胎児はいつからニンゲンとなるのか?

「胎児の権利に意味はない」と世に投げ掛ける地下猫さんの論考をまず読んでもらいたい。語尾が「にゃ」なのは気にしないように。

実は、応答でナニか書きたいのだが、わたくし自身がカトリックギョーカイの「生命倫理」分野が苦手で、避けて通ってきた分野である「教会は人の救いたるべし」「イエスの教えは愛の実現の為にある」というのがわたくしの倫理であり、現実のこの世の複雑さについてはケースバイケースにしとかないとなどと思っている。教条的になればなるほど裁きになる。

言語というのはぼやっとしたものをきちんと形にしていく作用があるのだが、それはつまりナニゴトかをロゴス化すれば必ずそれはグレーゾーンである部分を潰していくことになる。生命倫理の神学というのはそのグレーゾーンに対し白黒をつけて行きかねない剣となってしまうのではないか?もともとが救いのためにはじめた考えが他方でまったく違うケースが現れた時に救いとならず裁きになるというのは、それはキリスト教史を見てりゃ枚挙にいとまがなさ過ぎて、あらためて言うまでもないだろう。そもそもイエスがそう言ってるし。

しかし他方で、なにか道筋なり概念なりを考え続けないといけない。世俗に積極的に関わってきた教会の伝統芸が修道会による施療院という病院を産み出し、アカデミーを伝え続け、今、存在している多くの福祉事業を永らく担ってきた。倫理の神学というのはそうしたことを行うための根拠となる考えを伝え続けるものであった。まぁ現代の生命倫理に関する神学というのは、人の世の難しさに真っ向からぶつかろうとする雄みたいなもんだろうが、チキンハートなわたくしはそんな気概はないな。

まぁ、つまり倫理神学ってのはわたくし個人としては一番足を踏み込みたくない分野であるので今までまったく勉強もしてこなかったし、それに関する文献も読んでこなかった。興味が全然なかったし。なので地下猫さんに対し、教会のロジックを説明するための知識も欠けらもない。知識ある人は応答してもらいたいものでございます。

正直地下猫さんも指摘しておられるが似非科学臭がするのも苦手な要因ではあるんだが。科学的な思考で見るなら似非科学臭がするけど、教会の話法によって導かれているものだろうから、その辺りを説明して下さる素晴らしい方の登場を待ちたい気分。

◆◆

ところで、地下猫さんのエントリから少し離れますが関連として。

生命倫理に関して友人の神父と話していたんですが、「教会の前提の教えとして前提ではやはり保守的な立場を崩せない。教義を決定する期間であるバチカンは前提の教えを決めるのであるが、しかしそれでは対応出来ない現実問題がある。教会の教えは現実の社会に対応するには難しいものも沢山ある。そういう場合、現場が判断して決めてきた。いちいちお上にお伺いたてりゃそりゃバチカンは教義上のことしか言えないだろうよ。現場の人間が責任を引き受けて応答するべき問題だ・・」てなことを言っておりました。

つまり、なんつーか、冒頭にあげたように中絶馬鹿の為にも一応厳しい顔を見せてはおくが、それが困難になる場面では大人の事情で鑑みて、まぁそれはそれみたいに、すごーく裏と表を使い分けて生き延びてきたのがカトリック教会である。カトリックってのは、教えが厳しいように見えるが融通性があるというか、いい加減過ぎて宗教改革を起こされたぐらい実は緩い。緩過ぎて延び切ったようになっているために、バチカンみたいな親玉は怒り出したりするんだが、信徒のみならず、司祭も様々で、教条的なのもいれば,、リベラル過ぎてこっちが殴り倒したくなるのまでいる。まぁ、とにかく現場で判断して色々と行っていて、バチカンがコンドームを禁止しているなどと言っても、アフリカの修道女達はコンドームを配っていたりする。
えてして原理的に物事を考える人はどちらかを断罪したがる。「バチカンの考えはおかしい」もしくは「修道女達は教えに反している」

彼らがそれを何故そう考えたのかは前提となるケースがそれぞれに違うわけで、どちらかを断罪することなど実はできないこともある。もっとも「コンドームがいかん」というのについてわたくしは「馬鹿じゃないの?」とつい思ってしまう案件ですが。つまりそもそもそんな具体的に言わなくてもよかったんじゃないか?などとは思ってるんですけどね。「受胎目的以外のセックスはなるべくしないよーに」とか「神に結びつけられた男女間での愛以外の目的でセックスは行わないよーに」とかで済ませて欲しいものです。しかしどーやらバチカンにはその程度の教えでは、理解したり判断出来ないような人々から質問が沢山寄せられてくるんで、だんだんああなっちゃったようです。

そいや前述の神父は「なんのために告解があるのかよく考えたほうがいいよ」と言ってました。マッチポンプなシステムがあるんで利用すりゃいいじゃん。ってことですね。

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コンドームに関しては前述の通り、わたくし的には大変に謎なんで神父に聞いたら、自然に反する人為的な方法の避妊がいけない。ということだそうで、人間のバイオリズムを用いた荻野式などは認めているじゃないか。と言ってました。つまり人間に付与された自然を人工的なものによって曲げるような手法が容認出来ないというロジックなのだそうです。へぇ。「んじゃぁ、自然に反する存在というとカツラとか駄目なの?」と聞いたら、マジに聖職者はそれが禁じられていた頃もあったらしいっす。髪も染めてないよと言っていました。「んでも、歯の治療とか入れ歯するじゃん」と言ったら、それは生命のための苦を解決するものだからいいんだそうです。なんかよく判りませんでした。でもまぁ根底には性というのは神から付与された生殖、もしくは神によって結びつけられた男女の愛のためにあるという概念は賛同したい。セックスを巡る場面にある、「やり逃げ」とか、「性の道具の対象として女性を見るような風潮」、もしくは「性そのものの快楽のみが目的となり、そこにいる人間を無視していくような放埒さ」へのストッパーは必要だとは思うのですが、コンドームはそれの象徴なんですかね?

まぁこんぐらいくだらない問答(カツラはどうよ?とか入れ歯はどうよ?等)がまじに取り沙汰されてしまっているのがコンドーム問題なのかな?とか思うこともあります。「そんなことは自分で判断して考えてくれよ」とか言いたくなることにも答えてしまう性があるようです。ロゴスの宗教ってのはなぁ、大変だ。

ただエイズ問題でのコンドームに関する話は別次元の話にも繋がってくるし、これに関してはわたくしが知る限りでも聖職者の意見もまちまちで、バチカンの姿勢に批判的であるものもいれば、お約束的にあとは動けばいいじゃんのような流動的なものから、そこは譲れないというのまで様々ですね。


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それと受精卵に関して、教会が科学的にいつからがどうとかいってるのはちょいとそこはなんだか判らんのですが、潜在的に人となるであろう存在は既に人であるという概念があるようです。
地下猫さんの別エントリでもこのように↓指摘していた人がいましたが・・・

hummer_and_anvil
>1)胎児には十全な基本的人権がある。いかなる理由においても中絶は認められない
これはローマ・カトリックとは微妙に違うのでは?
あちらが中絶を認めないのは人権の問題じゃなくて神が命じてるからであり、人権より神権を優越させているからでしょう。

ここでの指摘とは微妙に異りますが(神権・・・ってのがよく判らん)、世俗的な人間の権利という概念と、教会の人の尊厳という概念は同じようで違うものでもあるから、それぞれの概念で理解しあうとすれ違うような気はします。神から付与されている人の尊厳という概念と、人が生きるために社会から付与される権利というのは似ているようで異るんで。ただ。神という概念を持たない場合、教会の考える人間の尊厳という概念は人権的な理解でしか考えることは出来ないだろし、概ねは近似値ではありますね。
ただ内向きに言うなら教会でも人権という言い方をしているのを度々みますが、尊厳といった方がいいと思うなと思うことはあります。

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ああ。いま読み返したら「だ、ある」と「です、ます」がごっちゃで気分が悪いが書き直したくない。

◆◆追記

カトリック生命倫理に関する資料、書籍紹介

教皇文書 『回勅 いのちの福音』EVANGELIUM VITAE
教皇ヨハネ・パウロ二世

人間のいのちの価値と不可侵性を明確にするため、人工妊娠中絶や安楽死、自殺など具体的な事項に触れながら、聖書や教会の伝統的な倫理観に基づいて教え、あらゆる人間のいのちを尊重し、守り、愛することを緊急に訴えています。
発行日:1996/7/15(原文の発表年月日;1995年3月25日)
ISBN:9784877500832
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/pope/inochif/inochif.html

教皇庁文書『生命のはじまりに関する教書』
   ー人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳に関する現代のいくつかの疑問に答えて
教皇庁 教理省

人間の生命の尊重と生殖過程におけるさまざまな疑問に対して倫理上の教えを述べ、体外受精や人工授精などの具体的な問題について現代の教会の考えを明らかにしています。

発行日: 1987/6/5(原文の発表年月日;1987年2月22日)


ISBN: 978-4-87750-033-7
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/roma/seimei/seimei.html

●日本司教団関連文書『いのちへのまなざし』二十一世紀への司教団メッセージ
日本カトリック司教団

21世紀のはじめにあたり、「いのち」が大切にされる社会を建設していくための「出発点」としての利用を願って発表された司教団メッセージ。

発行日: 2001/2/27
ISBN: 978-4-87750-094-8
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/bsps/inochi/inochi2.html

色々出ています。
みごとにどれも読んでいないが最後のだけは教会で買わされたのが家にすっ転がっていたはずなので捜して読んでみた。

受精卵=胚に関する記述については以下の通り

ヒトの胚、つまり受精卵から始まる妊娠初期の状態について考えるとき、次の点を基本的前提として確認しておく必要があると考えます。どの時点から人間のいのちが始まると考えるのか、という問題が出てきます。わたしたちは命がどの時点から始まるかを定義することよりも、まず、いのちをそのはじめから守るべきだと宣言するという慎重な態度をとりたいと思います。
(教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言』参照、もしくはヨハネパウロ二世の回勅『いのちの福音』でも同様の宣言が言及)

ここでは科学的な始まりの定義や権利というよりはただ「いのちをまもる」目的が主張されています。

また中絶に関しては

今日の消費主義社会では、生殖としての「性」の側面は切り離され、男女の情緒的な愛の表現としての「性」にのみ焦点をあて、人間の心をときめかす世界としてたたえてしまっています。

うむ。恋愛至上主義はどうよ?という話ですな。非モテに悩める若者を作り出す社会価値に文句垂れしています。

この『いのちへのまなざし』という書においては単純に抹香臭いギョーカイ内の話法の域を出ない文脈で述べられているので、似非科学臭はしませんが、わたくし個人がなんでこれを読まなかったかというと、なんじゃかいちいち細か過ぎて煩い母親みたいでうんざりしたのと、「イエスの教えは愛の実現のためにある」って基本を貫けばここに書かれていることは当然過ぎるんで別に読むまでもないと思っていただけですな。
問題はここで描かれない例外的ケースが生じた時にどうするか?という話になるのであまり参考にならんというのが率直な個人的な感触でした。

あと平仮名のタイトルって、どーも小馬鹿にしてるようで嫌いなんだ。新書のタイトル同様、読者を馬鹿にすんなとか思いたくなる。