ある僧院で起きた事件を巡る徒然

先日のエントリのコメ欄で、僧侶であるくまりんさんが伝統ある宗派の修行僧の僧房で起きた事件に心を痛めている話を書いておられた。どういう事件があったのかは知らなかったのだが、くまりんさんが自身、ブログでエントリをあげておられた。
○くまりんがみてた partIII
http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20090310/1236628202
■修行僧が酒飲み口論、同僚つき落とし死なす - 臨済宗永源寺

臨済宗という宗派の性質をナニも知らない門外漢なのですが、禅宗の雄という印象があります。悟りを開く、直感知的なものへ長けたような人々の集団というか、そんな印象です。

その臨済宗で起きた事件は酒によった酒乱っぽい古参僧侶が後輩を殴って死なすというもので、なんだか世俗な雰囲気が漂う感のあるモノであったので、くまりんさんはそのような事態を招いた現教団の体質に問題はなかったのか。本来の目的を忘れ切ってしまったような有様を嘆かれることしきりで、俗なわたくしなどはカトリック修道院でそんなことが起きても「むくつけき男ばかりの集団生活じゃぁ、100年に1回ぐらいはそういうこともあるかもしれないだろうよ」などとスルーしてしまいそうですが、誠実に仏に向かっておられるくまりんさんだけにこの問題において、教えの根源に立ち返って考えておられます。一種の公案を出された弟子のような。流石、僧侶だなと。仏教における修道の基本的な姿勢が書かれていて、世俗といっさいを断つ観想修道会や、或いはフランシスカン的な執着を捨てる思想との共通点があるなと思いましたね。

僧堂に入れば一度は得ることが出来るかも知れぬどんな心の平穏も世俗にもどれば乱されるのである。パーリ仏典に言うように世俗は一度得た阿羅漢果を保持することが出来ないのだ。『自分の家族や財産が他者によって危険にさらされれば、法的にも実力的にもこれと対峙することこそが世法の正義であり、社会的立場にしがみつき、稼業にエネルギーを費やし、自己と家族の安泰を図ることこそが、世俗の生き方である。仏教の悟りにおいて否定される「貪り」や「瞋り」は、一般社会ではむしろ必要なのである。そのような立場にいて、はたして一切の結縛を断つことなどできようものか?(*6)』ということなのだ。

ただ、酒が戒というのは厳しいなぁと思うのですが、ローマ・カトリックとか正教とか酒禁止じゃない。ローマは奥さん持つの禁止の「不淫」の戒、つまり貞潔が求められますが、酒はじゃんじゃん飲む。というかミサで堂々と酒飲んでるわけだし。この辺りはモンゴロイドや中央・南アジアと、ラテンでは肝機能の差異があるからなのか?酒飲んで乱れるのはとことん馬鹿で駄目という世間のコンセンサスが別に宗教関係なく存在する。つまり欧州発生の宗教とは違うのはやはり体質的に酒に弱い人種から生じた宗教だからなのか。もっとも単にイエスが酒飲みだったから、戒には出来ないというだけか。アル中の神父とか文学でも典型的なキャラとして馬鹿にされたりしてます。プロテスタントの一部には酒駄目な教派もあるし

で、これを受けて他でも仏のギョーカイ関係者が書かれていますが、その中には、この事件から派生した話題で、修業中における体罰の問題などがあり、それについて双方に暗黙のうちにコンセンサスがとれているのだから体罰なども存在していてそれを俗界の論理で云々されても困る的な話が出ていて、おお。洋の東西問わずどこでも世俗の論理が通用しないがそこにおいては必要なナニかってのがあるもんなのだな。とか思っちゃいました。伊達に修行の伝統があるわけでなし。長年の経験に基づいた論理がそこあるわけで、体罰なるものもその中の一つ。あの弛んでるとビシッとぶったたく棒とか。(『ぶっせん』のつまんだが好きなアレ)

その話はこちら↓コメ欄のやり取りも必読
○つらつら日暮らし
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/2c74f45cf4d9dd0b1f6063d58c00bd0f
臨済宗本山・永源寺の修行僧が飲酒口論し相手を死なす(追記アリ)

コメ欄でなにやら口を開けば愛を説くような甘ったるいキリスト教徒がいいそうなことをいいに来た人がいて、ブログ主の僧侶がびしっと回答してる。臨済宗・・・厳しそうだ。自分にも厳しそうだが他人にも厳しい。「修道」という道行きをするものゆえの精神性だなと感心したが、翻ってぶっ弛み過ぎた我がフランシスコ会のことを鑑みるに、臨済宗のお坊さんをチャーターしてきた方がいいんではあるまいか?などと考えてしまいました。フランシスコ会は修業中でも甘やかし過ぎだ。師匠曰く「昔はもっと厳しかった。修業中は親の死に目にも会えない」そうだが「今はそういう時代じゃないんで」って・・・仏教を見習って欲しいかもと思いました。

しかし仏教ギョーカイのお坊様達はやはり聖職者として導く立場でもあり、こうしたブログなどでこうした思いを腹蔵なく発信していく辺りは偉いなと思いました。
実はくまりんさんがキリスト教ギョーカイの人々が教団内不祥事に色々な意見をあげていて偉いなどとコメ欄で言葉を頂きましたが、信者だから言えてるんですよ。流石に責任ある立場の人(聖職者)が腹蔵なく自分の意見をネットで言ったら袋だたきに遭います。現にかなりはっきりとした意見を述べる某司祭のブログなどに批判者が変なカキコしに来たりしていましたね。だから神父やシスターが書いてるブログって波風立たないようなものが多くてつまらないなと思うことがあります。でも波風立たすと事件になりますし(例>ホロコースト問題でガス室について俺様意見を述べ糾弾された司教)なのであまり声を上げる人は少ないです。酒の席でこっそりとオフレコねなんて按配に、秘密の花園で語ったりしています。

なので聖職者は事件が起きても公には口を閉ざしています。信者達ががぁがぁ騒いでいるだけなので、くまりんさんとは立場が違うという感じですね。無責任になんでも言えてしまうんですよ。だから仏教の教団の閉鎖性を嘆かれることはない。どこも同じなんですね。ただロゴス化されている宗教なのでなんでも言葉にしたがるという点はありますね。ですから、社会問題についてナニかあると話合ったり、声明を出してみたり、俗界に口挟みたがるという按配でしょうね。

にしても、仏教関係のブログは僧侶発信のが多い〜と言うだけでなく、深いところまで掘り下げているのが多い。漢字熟語も多い。
美意識にピピっと来るナニかがあります。昨今の日本のローマ・カトリックと来たら反知性主義的というか、ギョーカイ内で神学の話をしても「難しい話するの禁止」的エートスがあって、掘り下げた対話「難しい話が多い」などと訴えて対話を阻止するのが多くてつまらん。わたくしなんぞはもとよりが哲学脳がないから、まったくよく判らんのだが、そういうコムズな話もなんとなくずっと聞いてりゃ、100のうち5個ぐらいは判って嬉しいけどな。で、どういう話をしているかといえば、こんな気づきがあったんですとか、祈って下さいとかばかりで。主観の話されても「ああ。そうですか」で終わってしまうので、広がらないです。美意識に全然触れてくれない。

そういうわけで、漢字熟語だらけでよく判らない仏教関係者ブログはその点で美意識に直感的に働きかけるなにかがあります。いまだ大乗と小乗の違いすらよく判ってないんだが。