カトリック教会と司法 裁判員制度を巡る問題

先日、こんな記事が目に留まった。

▼「人を裁くとは」問い直す宗教家たち 裁判員制度控え
http://www.asahi.com/national/update/0302/TKY200903020279.html
死刑判決にもかかわる裁判員制度の開始を目前に控え、宗教にかかわる人たちが悩んでいる。裁判員の役割や、裁判員に課される守秘義務に懸念があるようだ。あえて参加し、宗教者としての意思を示そうという意見もある。

 国内に45万人の信者がいるカトリックの司教総会が2月18日、東京都内で開かれた。信者が裁判員になったら、どう対応するのか、各地の司教16人が話し合った。

 裁判員法は、判決を決める「評議」の内容を他人に話すことを禁じている。講師の刑法学者が説明すると、「私は評議で死刑に反対しました、と話すと罰せられるのですか」と戸惑いが広がった。

 カトリックは死刑制度に否定的だ。日本カトリック司教協議会会長の岡田武夫・大司教は「多数決で死刑となった場合、信者が『自分は反対した』と意思表明できないのは精神的にあまりに苦しく、良心の自由にも反する。不本意な結果を引き起こすと分かっていながら、参加を勧めることはできない」と話す。

 司祭や修道者が裁判員になることが「聖職者の国家権力への参与」を禁じた教会独自の法に抵触する恐れも、講師から指摘された。6月の司教総会で対応方針を決める予定で、まだ協議は続く。

カトリック教会は原則としては死刑反対の立場を採っている。その根拠は当然のごとく十戒にある。「汝、殺すなかれ」は教会内では徹底されるべきものである。つまり司法としての死刑執行に関わる事は禁じられているのだ。これはもうすごく伝統的なものであるのだが、「ローマ・カトリックってぇと異端審問で、火刑してたじゃないか!」という反論は当然ある。実は「え?直接、手を下していないよ〜」という火刑「執行」に関わることは世俗に委ねて知らんぷりするというたいへんに卑怯者な事をしていたので聖職者は「汝殺すなかれ」の戒律を守れていた。つまり原則としてすごく昔から「一応」守っていた。ほんとに一応。表面的に。

またカトリックといえど聖域と世俗は立場が違う。聖域の存在(聖職者)は厳格な戒律や決めごとを守らねばならない。破った場合の罰なんかが明快に教会内法律で決まっている。信徒は聖職者に課せられた責務からは自由である。ゆえに諸々の事柄に対し聖職者と信徒とでは非常に異ることもある。

その一つに「世俗権力に関わることの問題」が存在する。聖職者は教会法によって世俗の権力に関わってはならないと規定されている。当然選挙に立候補するなど出来ない。世俗権力とは立法・行政・司法であり、これらに直接関わることは教会法によって禁じられているのである。

カトリック教会法典 285条 3項

聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる

注)上記項目は終身助祭は免除されるので、適用は司教、司祭、助祭(終身を除く)、修道者が守らねばならない。

上記のように、俗人会会員を含む信徒達、つまり俗界のものには適用されない、聖職者のみに課せられた明快な決まりごとがある。立法、行政、司法という国家権力に直接関与することは出来ない。意見を述べることは出来たとしても、その行為者となることは出来ないのである。つまり「裁判員制度」という司法という権力に直接携わることは出来ないというのが一応、カトリック世界の俺様ルールなのである。

さて、そうした固有の俺様的法律を持った教会という国家とは全然別の次元で存在している共同体に所属する者たちは、同時にそれぞれがどこかの国の国民である。市民としてその国に所属するのである。なので国家としては一市民に過ぎないそれらの聖職者が俺様ルール的に「カトリック聖職なんで参加出来ませーん」などというのは「国家の市民としてどうよ?あんたは市民として暮してるんだから責任果たさないと罰しますよ」と言うしかない。

日本で裁判員制度が執行されようとする現代、こうした狭間に置かれて坊さん達にとって悩ましい問題が起きているという按配である。←今ココ
まぁ信徒はその範囲でないんで、傍観って感じですがね。

さて、上記のように教会の法律は明快である。しかし聖職者達の見解も様々で、うちの師匠のごとき法学者は「法で決まってるんだからナニが問題なわけ?」なぐらいはっきりしているんだが、裁判によって世俗に関わることをもっと前向きに考えてもいいのでは?という人や、冒頭に述べたように死刑制度反対の立場をとるなど司法に関わる問題を社会提起したい思想を持っていたりもするので、そうした思想の現実的な行いの場としての裁判制度への参与を積極的に利用したい人もいるようだ。(政治的活動大好き司教とかいるしなぁ)あと、福岡では逆に司教が「(東京教区では)教会法が聖職者に携わることを禁じている公職に裁判員が該当するとしているが、2月6日の(福岡教区の)教会行政法制委員会では、必ずしも当たらない(引用・カトリック新聞)」と判断した様子です。教区によっても法解釈がまちまち。(東京教区はうちの師匠の見解が反映されとるようだな)

で、実はこの問題、つまり死刑問題が関わって来るのがいちばん悩ましい。

陪審制を採択するアメリカで起きた話である。あるシスターが陪審員として裁判に臨んだ。そしてその判決は「死刑」であった。アメリカの裁判制度では日本の多数決制度と違い、陪審員の全員一致が前提である(ただしこれは以前の話で、現代では州ごとに違い多数決制を採っているところもある)。全員一致ということはつまり件のシスターは死刑に票を投じたことになる。のちにこのシスターが陪審員に加わっていたということがばれて、これはスキャンダルとなった。聖職にあるものが死刑に票を投じたというニュースは俗な人々の正義と倫理原理主義をいたく刺激したようで糾弾されたであろうことが想像出来る。お気の毒としかいいようがないのだが、やはり教会内では問題となるであろう。このシスターは「何故最後まで死刑回避を守らなかったのか?何故、説得を行えなかったのか?」などと部外者的になんでも言いたい放題にいわれたであろうことが想像出来るのである。

また聖職者を関わらせた場合、司教もまた責任が生じる。司祭の行動についての最終責任は司教が負うのである。裁判員制度に参与するという世俗への活動について許可を出すのは司教である。ゆえに死刑判決が出た裁判の責任は司祭個人だけではなく司教にまで及ぶのだそうだ。これもまた面倒くさそうである。この関係性では死刑だけでなく、色々な案件で、司祭と司教が見解が異る時に、司教が責任が自分にもあるんだからと司祭に圧力かけたりとかしたりしても困る。

こうしたことを回避するために、教会は陪審員免除をアメリカの司法に訴えかけていたらしい。なんとバチカンアメリカが正式に国交を結んだのはレーガン大統領の時だそうだが(そんなに最近だったのか!と、改めてびっくりというかそれまでは対立していたということか?)、これを機会に聖職者の陪審員への責務解除の取り決めが結ばれたそうだ。

上記の話は師匠が教えてくれたのであるが、「日本はバチカンと早くから国交結んでるんだから、司教団は日本政府に掛け合うべきなんですよ。」などと申しておりまして、で、日本の司教団はそういう方向の動きをする前にまずバチカンにお伺いを立てることにしている模様である。流石、賢明です。


また、こうした懸念は聖職者のみならず信徒にまで及ぶ。カトリック教会が原則として死刑反対の立場をとっている以上、死刑判決が出た裁判に関わったということは色々な問題が生じる。この懸念については上記ニュース記事の引用にもあるように岡田大司教が述べている。まぁそこだけ読むとなんか激しくチキンぽい台詞なんですが、しかし教会が死刑反対の立場をとる以上、やはり信徒達はそれぞれに悩ましい問題を抱えることになってしまうのは事実である。とはいえ俗人というのは聖職者と違い世俗に対する、つまり市民としての責務が聖職者以上にあるので実はこちらの懸念は余計なお世話かもしれないです。なかには「カトリックななんだけど死刑反対じゃないよ〜」という人もいるだろうが、しかし死刑反対の思想を持っていて死刑反対を最後まで表明しても力が足りなかったというなら、聖職者が個別に告解ででも対応すればいいではないか?などと思う。

裁判員制度では守秘義務が厳格に存在する。自分がその案件でどのように判断したかなどを話す事も禁じられるわけである。ゆえに人を裁く行為という中でどのように自分が判断したか、また過酷な判決が出た時にどのように判断し票を投じたかなどの言い訳も出来ない。良心に照らして行動していたことなどは証明出来ないのである。ま、神様が判ってくれてるからいいじゃんなどとわたくしなどは思ったりもするんだが、そういう気持ちになれない人もいるだろうし、ですからまぁそういうことで激しく心が痛むのであれば告解というとっても素晴らしい制度が教会にあるわけで、おおいに利用するしかない。告解も厳格な守秘義務制度であり、そこは世俗の司法も立ち入ることが出来ない文字通りの聖域なのである。

しかし、なんというかややこしいなぁというしかない、ギョーカイ関係者以外にとってはナニそれ?ってなことで頭を悩ませているわけだが、つくづくカトリックってほんとに明文化された文化を持つ変な宗教だなぁと思う。流石ローマ帝国の末裔といいますか。善し悪しはあれどこのお陰で2000年続いてきたんだから、まぁ面白いと眺めることにしていますです。はい。

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裁判員制度以外に死刑問題も書いたんで、ちょっと触れておきます。

死刑制度に関しては、終身刑ってないんですかね?それ設定しないとなかなか撤廃されないんじゃ。などと思います。ただ、生涯、国が面倒見てくれるホテルと勘違いする輩も出てきそうでなぁ・・・死刑制度が残る癖に監獄がすげーバイオレンスなアメリカってのもすごいけど、日本ではバイオレンスじゃないから、マジに飯が食える監獄に入りたい一心で犯罪する馬鹿とかもいそうだし。まぁそういうのは特殊な例外だと思いますし、逆に自殺したいから人殺して死刑になろうなんて輩がいたし、こちらもまた特種な例なんで、ほんとに難しい問題です。

最近スペインで13歳の娘がレイプされた母親が、9年の判決で出所してきた犯人をぶっ殺したと言う事件に絡めて、NC-15のmuffdivingさんが良記事書いていたので後紹介しときます。

○NC-15
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20090227/1235716660
■死刑制度取り入れて解決できる問題じゃないからなあ

個人的にはEUが死刑採択してないとか、先進国で死刑があるのはアメリカと日本だけとかいう主張は説得力に欠けるしすごく下らないと思いますんで、上記のブログ記事のように本質的な問題として死刑は妥当か?否か?論じていかないと駄目ですよね。

我が霊的師匠が言っていたが「代案を提示しない反対は説得力に欠ける。死刑制度反対ばかり表明しても納得させられないだろう」
muffdivingさんは様々に具体的提案を出している。流石だなぁと感心した。

またこの単元の冒頭に「カトリック教会は原則として死刑反対の立場」と書いたが、死刑制度がいまだ存続している国々に慮り、また様々なケースで原理的に適用出来ないケースも踏まえた上で、あくまでもガイドラインとして、また目指すものとして、死刑廃止を訴えてはいるけど一応ね的にグレーな余地を残している。

つまり、ゼロイチ思考はしていない。しかし教会の本質としては死刑は容認は出来ないよねぇ。という主張は常にし続けている。
そうしたコトに関して司祭がまとめた良記事を紹介。

○片柳神父のブログ「道の途中で」
http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/20090127/1233016980
入門講座(27) 死刑制度とキリスト教

よくまとめられて分かりやすい。勉強になった。難をいえばヨハネ・パウロ2世の「回勅」や「いのちのまなざし」における死刑廃止の根拠がもうちょっと記されているといいんだけどなとは思う。他国がどうとか関係ないので。
本質として死刑は、いのちの進捗を人間が担うことになる、つまり神の領域を人間が関与しているようなシステムではあるわけで。人間が担える場所ではないんじゃないかなどと思う。ギョーカイ外の人には通用しないかもしれない理論ではあるが、ギョーカイ内の人は判ると思う。