派遣村等の弱者救済に関する批判についての備忘

まぁ、物事に関して色々な批判とか意見とかあるのは仕方がないとは思うのだが、それでも派遣村や弱者救済問題に関しての批判のいくつかに関しては首をひねらざるを得ないのもあるよね。

なわけで、そういう話に関して書かれた面白い記事をいくつか備忘

○地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090109/1231466513
派遣村叩きに見られる呪術思考(追記アリ

自民の偉い人の「真面目に働こうとしてるの?」発言はまぁ叩かれるだろう。2ちゃんねるとかでボロカスに叩いてる人ってのは幾分八つ当たり的な人も混じってるかもしれない。つまりマジに話すと実は意外とそこまで本気こいてなかったりとか。だけどやはり「流石にそれってどうよ?」な気持ちになるわけで、それへの批判として面白かった意見がこれ↑

呪術的というのがすごい切り口だけど、悲劇的な立場に陥った人への想像力が欠落してるってのはけっこう多かったりして、実はうちの親父がそういうことを度々言って、母の顰蹙買っていたなぁ。母が病気してても想像力が働かないんでこき使うみたいなのの延長で、どーも困窮する人の立場にもいろいろあることの想像力が働かないみたいな。

ま、それはともかく貨幣の持つ呪術性とか、面白うございました。コメ欄の派遣村が穢れであり伝染すると写るからやだ的な呪術ってのはどうなんだろう?深層心理にあるのか?私はそうは思わないってのはキリスト教徒だからか?よーわからん。
そういえばキリスト教でも貨幣は穢れ的な存在だったのが、プロテスタンティズムによってそれは覆された。しかし他方で働かざるものは怠け者的な勤勉的価値が生じたとかあるなぁ。


玄倉川の岸辺
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/6542ea4c75123b94d06cbdd3d4d6e3e4
■ ジョン万次郎と派遣村

こちらもネラーさんに怒ってた。
派遣村への「自分たちの運動に利用してるんじゃ?」という疑念は感じてると書きながらも、やはり自己責任論というのはおかしいという指摘。偏差値のたとえとか判りやすいです。
シチズンというのは社会共同体の責任の一端を負うものなので隣人を負う事だって生じる関係性を持つ存在であると思ったりします。

○木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090104/1231054961
■[コラム]不況の中倒産するまで雇用を維持し続ける中小零細企業の矜持

最近遊んでくれない木走兄の日記。経営者の視点から世相を見てるんでけっこう辛らつな意見が飛び出すんですが、年末の炊き出しの二つの光景から見た意見。日比谷公園と上野公園の光景の違いから。なるほどと思ったんですな。上野公園でメディアが取り上げず、さらに本人も沈黙するホームレス達。その声をあげない人々の声を聞こうとするのは経営やってる人だからだなと思いますね。

よいなと思った読み物として備忘しました。

ところで木走さんが「ものつくりの人々を大切に」と仰っている意見に関して、今月の中央公論五木寛之が「いまだ『モノつくり』信仰を持つ人がいますが、今後、小国である日本(五木は衰退していくであろうという説を唱えている)が「モノ」で他国の人と伍していくのは不可能です」などと申しておりました。

中央公論 2008年 02月号 [雑誌]

中央公論 2008年 02月号 [雑誌]

五木寛之はこのコラムで上記のように述べながら文化で尊敬される国になれとかいってますが、日本で評価されている「モノつくり」要素と文化って密接だと思うんだが?あと、ほかにキリスト教へのすごく単純化したものの見方を開陳していたが、大丈夫なんだろうか?というか日本は多神教的な神仏混合可能性をもっと深めた方がいい的なこと書いてるけど、これもステロタイプな日本文化礼賛で、どーなんだ?一神教をなにやら単純化した視点だけで駄目駄目という時点で「神仏混合的」な緩さがないんだが。自己撞着してるな。

この中央公論。うちの教授が文科省やガッコ運営とのやり取りなどで大層疲れていて思わず大学に絶望して手にとってしまったというので私も買って読んでみた。色々どこも大変そうです。
疲れた教授にはこれ↓を貸してあげることにしました。

街場の教育論

街場の教育論

ちなみに中央公論ジャイアンツのシーズンシート席の広告が入ってるのが笑えます。ガッコの仕事仲間に「中央公論にそぐわない」と言われていました。渡辺美智雄の怨念らしい。