悪魔と天使だけでご飯3杯はイケる 265 users(推定)


再びホッテントリメーカーでタイトル作ってみましたよ。今回のテーマにふさわしいっぽい。
ネタがマイナーなだけにブクマあまり来ないけどな。

他に・・
■ 悪魔と天使を10倍楽しむ方法 18 users(推定)
■悪魔と天使はもっと評価されていい 53 users(推定)
・・というもちょっとふさわしいのがあったけど、上記のが笑えたんで。

今回は、悪魔や天使を「迷信」と片付けるのはやめようや。という主張をしたいと思います。

前回、まぁニケア信経中心主義だと悪魔とか天使とかどうでもよくなるかもしれんね。みたいなことは書きました。やはりびじつな人間としてはそういうのはすごくつまらないなぁと感じてしまうわけです。先ずビジュアル的につまらなさそうだ。こんな教義原理感性だとセンスの悪いスローガン張り紙を教会に張っていても平気になるんだろうな。とか思っちゃいますね。ミルワード師に怒られてこいや。みたいに。

さてコメ欄でも多くの方が「神という不可知でよくわけ判らないモノを信じる我々が不可知な天使とか悪魔とかよく判らないモノを信じることができるのは当然だ。」というご意見が沢山ありましたね。

完全な唯物論者からみると、悪魔や天使どころかニケアコンスタンチノポリの信仰宣言ですら電波ものです。迷信と断罪されてもいい。でも我々は神存在を信じているわけです。

古代から人類は己の理解や認識を超えるものを神とか、あるいはもののけとか、精霊とか、そういうものとして捉えてきました。そのような明快な存在を持たなかった仏教ですら時代が下がると色々な仏の相を持っています。こうしたものは科学的に実証されているから信じるとするものでもなく、直感知として認識してきたものを形にしていったわけですね。
水木しげる描くところの「妖怪」にしても、ケルト人、あるいはアフリカ人が感じるところの精霊存在にしても、人間は本能的に畏れるもの、あるいは恵みを与えてくれるものの「外部」の存在を認め、それを語り伝えてきました。

島に住んでいると自然があまりにも生活に密着していますからなにやら自然への畏怖を常に感じます。そして例えば、島人達が語り継ぐ「ケンムン」「キジムナー」という存在を妙にリアルに感じたりするのですね。こういう感覚はあまり言語では伝えきりません。
神を感じる。神の声を聞く。神体験をするということも、個々にギョーカイ関係者なら常に感じていると思いますがそれを言葉にすることの難しさもまた体験していることかと思います。しかしまた同時に我々は常にそれらに対し「耳を済ませていなさい」と命ぜられてもいます。

この手の不可知的なるものを可視化させていく行為というのを古代から人間は行ってきたわけで、言語に記号化させていく、名辞という作用もそうですし、人格化させていく行為もそれの一つです。自然主義的な漢字圏では文字そのものが絵になっていて西洋とはまた異なる記号化を行ったといえます。いずれにしてもわけわかめなものをなんらかのかたちで固定化させていくのは東西共通です。

その際たるものが三位一体であり、わけのわからない超越者とその働きを「父」と「子」と「聖霊」などと形象化させる。イエスはまさしく具現化した神のロゴスであり、抽象的な教えを身体的なことばとして認識する為の装置です。イエスはまったく人間であり、飲み食いもするし笑いも怒りもする。悪魔に誘惑も受けてますね。(笑)そのまったく人間である人によって神存在が身近になったとキリスト教は認識するんですが、ローマという身体的な感覚を持った文明が最終的にキリスト教に「伝染」してしまったのも、このイエスという判りやすい視覚化された身体的装置のお陰でしょう。

「身体的な言語」というと内田樹さんが常々色々語られていますが、いわゆる「音声言語」とは違う、肉体的感覚を通じた知による「言語」というのを考えていて合気道などやっているようです。彼の著作には言語によらない知覚の話がよく出てきますね。

わたくしも、言語から得る知覚は少ないです。まぁ絵描きですから視覚的な直感ってのが認識知の大体を占めます。文字なども音声言語として捉えず、視覚的に捉えるので、アルファベットの読みがすごく苦手ですな。漢字は読めるんだが、アルファベットになると文盲になる。
しかし視覚として捉えられないようななんと説明していいか判らないナニゴトかというのも「ある」と考えて世界を認識していますね。まぁそのうちのいくつかは言葉数を重ねれば説明がつくものもありますが、中にはあとで説明つかないような体験とか、なんか皮膚がびりびりするような怖い場所とかについても色々ありますし、友人などは島でそういう場所に行ってぶるぶるしてました。

そういう超常現象的なるものをことさら取りえげて有難がるようなムー的趣味はないのですが、しかしそのようなものは「ある」と考えています。体験的にそういうものを「迷信」と切り捨てるわけにはいかない知覚分野があるなと。

さて、先日、竹下さんの言葉を引用しましたが「悪の存在は自明」ゆえに欧州人は悪魔の存在を云々するまでもなかった。とあります。しかし西欧人だけでなく現代日本に生きる我々でも「悪」は生活の中で度々出くわしますね。そもそも「悪」の字が存在しているわけで、それを西洋人たちは悪の為に働く存在がいると考え、それを「悪魔」という存在で知覚していたのですね。

まぁ日常でも悪魔のささやきとしか感じられない現象というのは存在しますね。ニュースに流れてくる事件などでは「犯人は悪魔に魅入られたとしか思えない」などと我々は普通に言いますね。それくらいいまや日本人でも修辞的に使いますし、悪魔が実際に耳元でささやいている光景を脳裏に浮かべます。

つまりまぁ悪魔というのはその存在自身を信じる信じないに関わらず既に修辞として人口に膾炙していますし、悪のカリカチュアライズされたものとして認識されています。だから竹下先生が指摘するように存在証明するまでもないようなものだったりします。

悪魔や天使といったものをナニかを語るときに持ち出す話法というのにそれほど目くじらを立てるまでもなく、シンボリズム的、象徴的な、記号として自然に我々は語りますし、悪魔や天使を持ち出して語るほうが手っ取り早いことなどは沢山ありますね。

まぁ更に突っ込むと、この世ならざるナニかを認識し感じるというのは実は大切だとは思っています。ここからはシューキョー的本懐な場面です。「畏れ」という感覚が関わります。この「畏れ」という感覚については長くなるんで、あとでまたまとめたいかと思いますが。

で、悪魔なんかが問題となるとするならばオカルティストのようにことさら悪魔の存在を意識しすぎるものとか、天使の力がどうとかいうようなニューエイジ的な取り上げ方などのような超常現象を有難がったりするもの、或いは悪魔という存在をことさら大きく語り、必要以上に人を脅かすような時でしょうね。

ちょっと休憩・・・・。

不合理ゆえにわれ信ず

↑声を大にして言いたくなってしまいました。再開。
ところで、これ言ったの誰だったっけ?

なんか散漫になったんで、やる気失せてたんですよね。まぁ気を取り直して。

で、えーーっと、悪魔を語るのは迷信か?という話でした。

大衆的信仰の側面には度し難いようなのが沢山あります。

それこそムー的なのはそれの典型です。ムーが記事にしそうな、予言とか、出現とか、天使を飛ばす聖人とか、聖痕とか、涙を流す像とか、聖骸布とか・・・・怪しいもののオンパレード文化がカトリック教会の歴史にはありますね。他方で悪魔を迷信と言い切る学者もいれば他方ではそれらちょいと電波がかった奇跡を大切にする人々もいます。聖職者信徒に限らず、信仰的な成分が強いのもいれば、理性的成分の強いのもいる。ロザリオなんかやらねぇという神父もいるかと思えば、あなたの守護聖人に祈りますよとさらっと言う神父もいる。そういう多様性を教会は良しとしてきたので、今も渾然一体となってそういうものが存在する。

で、例えばまここっとさんが言及してくださった「悪魔祓い」やパードレ・ピオといった存在はいわば大衆的神秘主義が支えてきた。水伝のごとき似非科学を目の敵にする人々がまず嫌いそうな「宗教」の一側面ですが、こういうのは実は馬鹿に出来ない。

そういう現象はこの本を読むのがっ手っ取り早いかな。

バチカン・エクソシスト

バチカン・エクソシスト

あまりにも合理。唯物的な世界では、かつて原始宗教に自然に存在していた保留される場、語りえぬものというものが語られなくなっていくのですが、そういう社会でかなりの数の人が平衡感覚を失っていく。イタリアという土壌は「悪魔祓い」という文化が伝統的にあったのですが、ここ近年急速にそれで悩む人が増え、教会の門をたたくようです。

上記の本で語るエクソシストたちによるとそういったほとんどはなんらかの精神的病であったりするということです。で、エクソシスト精神科医や心理学者と連動してことを行う人もいたり、どんどん悪魔祓いする人もいたり、慎重なほど慎重な人もいたり様々なようです。

どんどん悪魔祓いする代表格はミリンゴ司教でしたが、なんだかこの人は勝手な活動をしまくってずんずんと暗黒面に行ってしまい、しまいには統一教会の人と”結婚”したり、カルト集団化したりして、ついに破門されてしまいました。アーメン十
確かにこういう側面では「迷信」として危惧したくなり人々がでてもおかしくはないですが、しかし多くの地味に活躍しているエクソシストたちは「悪魔はいる」と確信する現象に少なからず出会っているようです。その事例はすこぶる少ないのだそうですが、やはり「いる」としか言いようがない現象はあるようです。

こうした場面でまぁ悪魔がいるいない。だからどう、という感じで結論付けるのではなく、やはり一定数の不安な人々の問題解決になっているという効用的な面は鑑みたほうがいいでしょう。どんなに否定しても超常現象を信じる人々は一定数出て来るのですが、それを伝統宗教が否定するとカルトなものに走るだけでしょうね。

日本でも朝っぱらから星占いや血液型占いなどが流れるように大衆はそのような不合理なものを身近においておきたがるという度し難い性質があります。出かけた先で霊柩車を見たら親指を隠したり、黒猫が横切ったら不安になったり、青いプリウスを数えたり・・(それは違うか)まぁ他愛もない迷信に無意識に反応していたりしますね。

そのように迷信などにもつい反応してしまう傾向というものが多くの人にありますから、超常的な現象を頭ごなしに「迷信」と否定してしまうとやはり人心は不安に陥ってしまうだけであるとは思います。

パードレ・ピオなどはぬけぬけと「あなたの天使を私のところによこしなさい」とか「私の天使をあなたのところに遣わします」とか言ったそうですが、そんなに信じてなくともこのように堂々と言われるとなんだか安心してしまうという心理的効果ってありますね。実際に来てるか来てないかなんて判らないんですが、それでも安心感を得られます。
そういう側面を馬鹿にしてはいけないとは思うのです。

まぁそれをぬけぬけといえるキャラとそうでないキャラというのはありますから、すこぶる理性的であるのにぬけぬけと言ってしまうようなすごい司祭とかいたら尊敬してしまいますよ。欧州には大量にいそうだ。

こういうなんだかわからないけど安心できるとか、なんだかわからないけど不安なものを、ちゃんと形にしてなんとかしてくれるというのはどの伝統的な宗教も内在しています。やはり前述の通り、エクソシスト(それもかなり理性的な訓練を経た)が「説明のつかない現象がある」というように、やはり我々の回りを取り巻く世界には、論理だけで語りえぬものが存在するとは思います。

そこのみを取り上げて特化させ衆人を集めるのがカルト宗教や或いはニューエイジというものにみられます。チープに誇張されるような超常現象で人を引き付けます。前世を語ったり、守護霊とやらを語ったりするんですが、そういう辺りは「だからどーした?」としか思わない。ムーはあっち行け。などと思います。

しかし、他方で、語りえないものを感じたりする自分というものがあり、また守護の天使を遣わそうか?などといわれると安心してしまう。ここの分水嶺ははなはだ難しいんですが、カトリックギョーカイの場合はやはり神存在が中心となって語られている。超常的、あるいは奇跡的な存在そのもの自体はことさらに強調もしない。普通にまぁあるよみたいな感じであるからかな?と思いますね。

だから迷信として片付けたり、殊更に強調しすぎたりしないで、普通に自明な存在として捉えている。という自然さを持ち続けていくのが大切だろうとは思います。

◆◆
ええっと、悪魔と天使で既に3エントリ。マジにご飯3杯はいける感じで書いたな〜。われながら馬鹿だな。

まだ続くかもしれないが、やめるかもしれない。飽きてきたし。

ところでマルクス博士が関連エントリ書いといて下さいました。


○Comments by Dr Marks
http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/20081229/p2
■ Juan Masiá Clavel(ホアン・マシア・クラヴェル)神父の悪魔観とローマ・カトリックの悪魔観について


マルクス博士はアメリカの聖書学をやってる神学者。某教団から足抜けしたとかしないとか。。。。現在の教派は劇団ひとり状態で、どこでもないそうですが、アメリカの宗教事情ってよく判らん。