厚生省事務次官殺人を「ゲーム脳理論」とかで見る

昔々、ロシアという国にロジオン・ロマーヌイチ・ラスコリーニコフというすごく名前の長い青年がいました。彼は法学を目指す学生ですが、貧困のうちにあり、学問を断念せざるを得ないという失意の元で鬱々とした日を送っていました。彼はやがて自分は選ばれた人間であり、このような選ばれた人間は、世の中の為になるならば、既存の法を超える行為を行うことが出来るのであるとか、道徳を逸脱してもその行為は正当化される。それらの行為は正義の為に行う行為であり善であるなどという大変に自己中で電波なことを考え、悪名高い高利貸の老婆を殺してしまいます。

以上はドストエフスキーの『罪と罰』のお話です。

ドストエフスキーの小説にはこういう「正義の為ならなにしてもいいよ」的な軽薄な若者がよく出てきますね。『白雉』というやたら長くて途中で飽きちゃうような困ってしまうような小説がありますが、これにもやたら超軽君な共和主義者が鼻息荒く「俺様が考える正義」を説いて、主人公のボーーーっとした聖☆お兄さんムイシキン君を困らせてます。もう内容ほとんど忘れちゃったんですがここはかなり笑えるシーンですな。

ま、そういうわけで小泉毅君のごとき俺様正義鉄槌野郎は昔からいたわけですが、現代だとその根幹の動機が「犬が殺されちゃったから」という按配で・いやはや。「正義」の部分と個人的怨恨が一緒になっているので、ラスコリ君にも[これはひどい]タグをつけられそうです。

ところで、殺された事務次官とその奥様に対する毅の認識はというと・・

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/198550/
「官僚は悪だ、ゴミだ。家族も雑魚だ。だからやった」

官僚=悪
という単純化。家族は雑魚キャラ扱い。[これはやっぱりひどい]

さて、先日、官僚という存在を日本のメディアにはどちらかというと悪者扱いしているようなエートスがあるてなことを書きました。

役人たたき、教師たたき、医者たたき・・というようにかつては先生とか呼ばれていたような、なんらかの尊敬を受けたり、権威のある存在を、その職業的な付帯要素で個体差を考えずに十把ひとからげ的に叩く的な風潮がある。
かつては先生と呼ばれていたからには、それらの職業には「仁」的要素が要求されるし、またそれに応えて動いていた人々が多数いたからそういう存在にもなったわけでもあり、今日でもそうした心意気で頑張っている人も多い。しかし当然履き違えたような馬鹿もいる。批判する側はそうした馬鹿のみを取り上げ叩きまくるので、なにやら世俗的なエートスとして、医者、官僚、教師は堕落してるとか、金持ってるのに悪いやつみたいなキャラ付けがされやすい。
ついでに言えば建設ギョーカイ人なども小説では悪人役。カトリック教会も悪人役で出て来ますね。陰謀の巣窟扱いとかさ。

こういうイメージレッテルはメディアが流す情報で形成されていく。こうしたイメージングの中で洗脳されると小泉毅君のような単純正義な電波君が出来上がるんである。

こういう単純イメージに洗脳された人間は『ゲーム脳』ではなく『メディア脳』と名づけておく。

「昨今の若者は無責任に垂れ流すメディア情報によって、健全な倫理観や精神を形成できないので、青少年にテレビや新聞等のマスメディア情報を無制限で与えることは、健全なる青少年の育成を著しく阻害するものである。メディア情報を法で規制したほうがよいと思われる」

という理屈が成り立ちそうですよ。

まぁ、この手の情報は受ける側の理性の問題であり、取捨選択し考える能力を身につけないといけないのはゲームもメディアも同じであるが、ま、常にゲームやネット批判をするメディアの中の人は、自分達もまた大変に無責任なイメージングをつけていることを自覚してものを言ったりして欲しいと思うのですよ。つまり「言葉の力」とはそれほどまでに恐ろしいのだということを扱う側は自覚してるのか?と思うのですな。


言葉の力が強いドストエフスキー君の本

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

どうでもいいけど光文社のこの表紙ってどれも同じでわけが判らん。も少し内容に即したイラストつけてくれないとどの巻がどれだかわからなくなります。トルストイドストエフスキーが同じでビジュアル人間には辛い。

白痴(上) (新潮文庫)

白痴(上) (新潮文庫)

長い。飽きる。でも部分的におかしい。主人公がなんだか変。脱線しまくるんで話が途切れる。いいかげんにしろ。ドストエフスキーにはちゃんとプロットを煉ってくれるような編集者がいなかったんだろうな。好き放題やってるよな。お陰でこの小説のあらすじはもうわからないし、途中で読むのやめた。