救いということについて。テロリストは死ねばいいのに。

ちょこっとコメ欄に書いたことの補足。我がカトリック教会という抹香臭いギョーカイねた。ギョーカイ的思考の話ね。

で、表題。自爆テロの人はもう死んでるから、まぁなんですが・・・・とにかくそれくらいテロリストってのは嫌いな人種だ。日常にやってきてどかんとやる。つまり戦争を仕掛けてるわけで、堂々と戦争してるヤツと同じ。貧者の戦争だからよいとかなく、等しくどっちも無差別殺人してる人殺し。

そういうわけで、私は一部左翼の人々が英雄視したりするくそばか赤軍残党どもは等しく畜生で豚だとおもっておることは既にブログで何度も書いている。クズな馬鹿女がカコイイとなどと思ってる脳みそがすこぶるノータリンもそういうわけで馬鹿にしている。まぁ赤軍派系テロはカコイイと思う人は好戦的な一部のアメリカ人と同じ種類の人間だと自覚した方がいいと思うよ。なのでそのことを自覚してる人のことは馬鹿にしませんです。覚悟してるなぁと尊敬したりしますよ。

正義というのは残酷であることは、昨日紹介したフランス革命史を読めばよく判る。誰もが理想的な解決を望みながら、立場の違う「正義」がギロチン送りになる人々を生み出す。人間社会の原罪的光景というのはいかんともしがたい。そういうわけで「正義」などと臆面もなく言い放つヤツは斜めの目で見てしまいますな。人間の知覚で認識したり考え付くような「正義」はニセモノだと思ったほうがよい。

なので「正義と平和」などとノー天気にいってる人々は語義矛盾しやすいものを一緒くたにしていることに気付いておかないとロベスピエールになっちゃうかもしれません。

ところでシューキョーの人は地上の善悪の彼方みたいなところにいるので、罪びとも等しく救いの対象とか考えてしまうわけです。

凶悪犯も、アメリカの鼻息の荒い戦争屋も、テロリストも、国民に多大な迷惑をかけても平然としてるような一部のお役人さんも、どれも罪深いので救いの対象なのですな。地上の人々はこういう人たちを当然裁くし、健全な共同体の維持の為にある程度の倫理観は共有されるべきであり、赦されざる罪は糾弾しなくてはならない。なのでテロリストムカつくが、テロられた方が所属する厚生労働省は罪深いことをしてることを反省してくれ。

ところで我がギョーカイの始祖、イエス・キリストは全ての人を救う為にやってきてしまったので、ギョーカイとしては上記の罪びとは救いの対象になるのである。つまりまぁギョーカイの正義的な人が嫌っているブッシュも、わたくしが嫌いな左翼過激派も救われるべき人なんである。

宗教者的には、敵はいない。みんな救いの対象になるので、世俗で嫌われる人に蜘蛛の糸をたらすことを要求される分野なんである。仏教でも菩薩は蜘蛛の糸たらしますな。絶対悪な人間というのは実はそうそういなかったりするわけです。

俗と聖のバランスはそういう風にあるいいと思ったりしますね。