宗教とか科学とか

なんかはてなー界隈で似非科学だか疑似科学だかいうのが批判されていて、科学と宗教と似非科学とかが並列にしてる人がいたりして、それで以て、それおかしくね?とか物議をかもしているようです。

宗教というのんを我がギョーカイで鑑みるに「信仰」と「理性」というものが常にくんずほぐれつしながら、ある時は矛盾対立し、ある時は他方を証明したり、ある時は他方を有無を言わさず凌駕したりしてきたなかで神学とかが発展したり、神学者が哲学したり、科学したりしてきた。

神は存在するという「仮説」を絶対的真理として所持していたのがキリスト教だが、神とかそういうのはもうそっとしておいて、とりあえず被造物内で起きる現象だけで色々考えてみようよと、オッカムさんとかいう人あたりが切り分けたお陰で、地動説も日の目を見ることが出来るようになったんだな。よかったです。ガリレオさん。

この歴史から鑑みるに、西欧のばやいは、中世ぐらいまでは科学は宗教内でごにょごにょやっていた。「神は光である」とか言いながら光学を研究したり、被造物の技を探求したり、神は絶対的なんで数学的に美でなきゃならんとかいいながらピタゴラスをどっかから掘り当てて研究して、ゴシック建築の為に物理してたり、音の研究してたり。レオナルド・ダ・ヴィンチは神の似姿であるがゆえの人体の美を探究したくて解剖してた。まぁ中にはほとんど魔術と変らんもんもあったが、とりあえずみんな科学とかしてた。

でも「神」という前提を無くすことでガリレオを有罪にしたりダーウィンを断罪するような変な足かせ(教義)の領域がなくなり、世界が広がった。それで今に至るという按配だな。

西欧の歴史だとそうなんでたぶん「科学」と「宗教」を対立位置に置くということはしないと思う。

ただし「信仰」という分野と「理性」という分野は時々対立するので、どれがどっちの分野か?などと意識したりする。オッカムさんとかは意識してたんだろう。たぶん。

うちのギョーカイだと「奇跡」というもうこれは電波というか科学ではない、世にいう「宗教」的「迷信」な面目を保つ分野がある。ムーとかに出てきそうなルルドの奇跡とか、聖骸布とか、ファチマのなんちゃらとかだよ。科学な人にとっては「うへぇ」と鼻つまみたくなる電波系。

この奇跡認定というのは科学的に先ず現象を分析する。つまり教会的には「科学で証明される現象は奇跡にならない」としているのだ。ほっときゃ壁の染みまで聖母出現とか言い出す電波が多いからな。教会官僚達は伝統的に知識人で理性の権化で疑い深く単純に物事を信じないような人間がうようよいるのでこの手の奇跡が起きても、先ず電波系のたわごとかどうか確かめるんである。で、概ねは電波である。
しかし、オッカムのかみそりで切り捨てても残るような、科学的に説明できないシロモノが「奇跡」という鰯の頭的な、信仰でしか理解できない存在として理解されるんだな。或いは有名なエクソシストも「病理的に説明できるものは悪魔の仕業ではない」として精神医学の人たちと協力していたりする。だが、ギョーカイの人々は奇跡や悪魔の現象を科学と混同はしない。それは「科学の分野とは違うナニゴトか」として理解してますな。

で、皆さんがたぶんくんずほぐれつしているのは、信仰と理性の対立構造において、似非科学とやらではその「理性」的なるものと「信仰」的なるものがちゃんと意識されずにごっちゃになっちゃってるじゃないか〜キモイ〜。みたいな状況なのかな?

そいや、論理化されていくスコラ的な人と信仰的な神秘神学的な人は昔っからちょいと仲悪かったけどね。ピエール・アベラール(論理学の人で弁証法の騎士と呼ばれていた)がサン・ベルナール(中世神秘学の重鎮、観想修道会の偉い人)にいじめられてたとかさ・・・(対決した理由は実は説明するのめんどくさい普遍論争とやらだけど。のちにオオッカムも関わることになる)

なにやらエンドレスで持ち上がる似非科学問題なんだけど、実は皆さんが議論を何故これだけ重ねてるのか、ちょっとよくわかんないです。

アメリカなどの一部のキリスト教が創造科学という科学していて、これはまぁかなり似非科学的というか、科学的なるものと信仰的なる分野が一緒になってる。アメリカにおけるプロテスタント創造論な人と科学の人とはどんな風にしてるんでしょうか?やっぱり議論してるのかな?

オッカムに切り分けてもらえ。