最近のメディアは憲兵みたい

けふはガッコに出勤なので朝っぱらからニュースなんか見ていたんですが、今日のニュースは兵庫県の知事が関東大震災が起きたらチャーンス!!!と言ってるというお話でした。
[これはひどい]
速攻でタグ貼りたくなることをほざいてるなと思うが、それにしても最近のニュースはこういうのばっかり。失言の揚げ足取りばっかりといいますか。

公的な立場の人が公的に発する言葉が批判されるのはまぁ仕方がないし、また、その内容も個々に突っ込みいれたくなるのもわかるんだが、「けしからん」レベルで終わってるのが多いのが、なんとなく戦前の非国民探しみたいで嫌だ。

兵庫県知事の場合、関東に住むものにとってはそりゃぁ震災がチャンスとかいわれては面白くもないし、そもそも被害がどういうことになるのか身に沁みて判っている土地の人の言葉だけに、えええ?と思ってしまうが、しかし「あの被害を知るものだから首都機能が一極集中は恐ろしいことになる」ということが念頭にあって出てきているという。それ自体は危機感は当然だとは思う。わたくしもそう思う。東京一人勝ちは赦さん!
ゆえに、まぁ言葉のセンスなさ杉。な話ではあるが、言葉尻のみ取り上げて嬉々として報道してるのもなんだかなぁと、実は思ってしまった。

同じようにあちこちで問題になっている「たもがみ」とかいう水中食虫植物みたいな語感の名前の幕僚長の論文もそれだけ読むなら突込みどころ満載である。

侵略したんだよ日本は。負けたから日本の侵略は連合国みたいにスルーされないんだよ。当時は色々な先進国が他国を侵略して市場を伸ばしたり資源を確保してたんだよ。それが当時の世界であろう。日本だけいじめてやがるったって、それが負けるということなので、潔くそれを認め、未来の教訓にするだけの話である。例えば朝鮮は言葉なんぞを強要されたり、経済的にも文化的にも日本の侵略を受けている。昔は中国なんぞも半島を侵略していたり元が侵略していたりしたようだが。とにかくあきらかに日本も侵略している。インフラを整備したからって、やっぱ他国に支配されるのなんかやだよと思うのが普通であるし、そういう風に思っている人々を政治的に支配するのは立派に侵略である。アメリカはインディアンの土地を侵略して建国したのだ。

ただまぁ右っかわにかなりぶれまくった人々は歴史をそう考えてないし、そう考える自由もあるんで勝手に考えてなさいと思うので、その思想のみを取り上げて、「ふさわしくない」というのもこれまたなにかいやーな感じはする。右だろうが左だろうが思想の自由はあった方がいいなといいますか。

これが例えば「政府はイラク派遣の要請に応えたが私は反対である。」とか「給油活動は違憲である」という論文をこの幕僚長が幕僚長の肩書きでどこぞの機関紙にでも載せた場合、メディアはどういう扱いするんだろうか?政府見解とあきらかに異なることを幕僚長は言っているので当然政府は同じように罰するかもしれない。この場合メディアはどう対応するだろうか?

幕僚長論文が問題なのは、現行政府が決めた自衛隊のあり方批判が加わっていたりする辺りで、政府の命に忠実に動く軍という基準で考えると「たもがみってやつはなんだかな〜」とは思うが。あと、まぁあんなふうに右っ側に憂国していて、226事件のごときクーデター起そうとか実は算段していたとか、あるいはそういう憂国君たちのセクト自衛隊内に作って組織的に活動してたとか、そういう事実があったなら問題だとは思う。どうだったのであろうか?思想がひん曲がっていても政府の命令で自分の思想と異なる活動を黙々と行えるってなら、それは軍人の鑑だよな。
ただ、ほんというと軍人というのは思想持つと怖いなとは思う。左だろうが右だろうが。だからまぁそういうのを徹底させとくようにするってのも大切なのかもしれない。けんぽー九条を変えてそういう法を設けてはどうか?今のような中途半端な状態が一番よろしくないのではないか?軍人がイデオロギーを語ってるという光景そのものが実は一番怖いがゆえにの批判ならすごくよくわかるのだな。

で、こういう「長にふさわしくない発言」というのは、実は我がギョーカイでも、共産主義だったり社民党だったりする司教がいたるところで左発言をしていて、カトリック信者達から批判をされている。曰く「司教の肩書きで左翼系のなんちゃらなどに寄稿していた」とか憲法九条のなんちゃらに名を連ねているとか。

例えば司教が個人として赤旗に寄稿してまぁ職業に「カトリックの司教」とか書いてしまったりしてること自体は思想の自由だから仕方がないかもなどと思うのだが、司教というのはカトリック教会の代表者でありその人の言葉がそのままカトリックの見解と受け止められてしまう危険性がある。こういう時、やはりそれは嫌だなと思う心理が働くのは当然である。批判する人が出てくるのは当然ではある。ゆえに自衛隊の田母神幕僚長のあのナショナルな言葉がふさわしくないという批判もよくわかる。

だが、やはりカトリック教会内の活動にそれを持ち込まない限りはまぁ自由とは思っているのである。ちなみに司教はカトリック教会内にその活動を持ち込み、カトリック教会内に政治活動拠点を作り啓蒙活動しやがるのでそれは問題であると思っている。

ここの違いは難しい。線引きがすごく難しいと思う。

言論や思想の自由というのは実はわたくしはかなり大切にしている。それは自分
が絵描きであるからなのだけど。だからなにか社会のエートスで、倫理で、言論を「批判」ではなく「封じ込める」ような方向性は怖いなと思うことがある。それは戦前の日本の空気みたいなそんなものにも通じてるように思えて仕方がない。

あのナショナルな幕僚長がやはり戦前の日本の末期的軍人みたいなものを思い起こすのと同時に、言葉狩りに奔走しているメディアのあり方もそれを思い起こすようで、実のところどちらも怖いんである。

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ところで兵庫県知事にしても田母神幕僚長にしても、その言葉を聞いたら、あるいは読んだら、わたくしも激しく怒る、非常識だとか馬鹿だとか幼稚だとか罵倒したくなってしまう。

しかし、冒頭に戻るが最近のメディアが憲兵化している的な違和感を抱いてしまうというか、これに限らず失言に群がる系のニュース率がここ数年で異常に上がった。

なんだこれは?と思ってしまう。

言葉を批判するのは容易い。そこに言葉があきらかに存在するから。しかし具体的な政策や、その人が行った行動などを批判したり記事にするのは綿密な調査や取材が必要である。ある程度の知識も要求される。

そういう系のニュースが減ってるような気がするのは気のせいかにょ?

どうもマメにニュースを拾ってないからなのかもしれないがこういうのが声高で目立っているのはどうなの?とは思います。メディアは楽しようとしてるんじゃないか?ネットのブロガーが書きそうな記事を書いていても駄目というか最近はそれ以下じゃないか?

日本のジャーナルな人々はもっと頑張ってほしいものです。

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続きというか補足。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20081114