展覧会を観る空間

佐藤亜紀さんがブログで激しく怒っていたんでナニゴトか?と思った。
しかも美術ネタである。びじつ。
佐藤亜紀 日記
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2008/08/2008814.html

そういうわけで怒られている人のブログに行ってみた。広告が沢山あって、記事自体も、宣伝とワイン購入と佐藤亜紀への罵倒が渾然一体過ぎて、なんだか読み辛く、けっきょくよくわからなかった。えでぃとりあるとかぶんしょこうぞうのぶんせきにのうみそをつかいすぎて、よみおわったらつかれてのうりょくがなくなり、あたまがわるくなった。あるじゃーのんによろしく。

こちら↓

○弐代目・青い日記帳
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1480
フェルメール・ワインに風神雷神ベアブリック

ええと、事の発端はユリイカによせた佐藤亜紀の攻撃的な展覧会評にむかついたブログ主が、ガーデニングなどしてあるようなお家の冷房の効いた新古典主義的もどきの家具に充ちたような部屋で、ユリイカをめくりながら「いやねぇ、これだからお下品な方は」と、2800円のワインを傾け、フリフリの服をきたチワワかなんかを膝に乗せなでているような、そんな勢いの雰囲気で・・・

独り占め出来ないならフェルメールを観に行かないというのは、本当にフェルメールが好きではないからでしょうね。

そりゃ確かに空いている方がいいですよ、独り占め出来れば尚更。何度か海外の美術館で自分もそういった経験しましたし。でもそれとは対照的に大勢の見知らぬ人と感動を分かち合いながら観るのって素敵なことだと思うのですけど……今日なんて関西弁やら外国語やらが会場で飛び交いそれはそれは「賑やか」でしたよ。

意地張らずに来ればいいのに〜佐藤さんも。本当にVermeer好きならね。

・・・などと語っていたのである。
うへぇ。

まぁ、上記イメージはあくまでブログのこのエントリ内容から受けてしまった限定印象なんでまったくのフィクションです。他のエントリは違う感じかもしれないが。

うーん、もとの評を読んでないから判んないけど、これは怒るわ。主張内容以前に、なんとなく雰囲気が人を怒らせる度数が高い。たぶんわざとやってるんだろうけど。

混雑した展覧会場は嫌だし、わたくしも日本の展覧会の宿命はそんなもんだから人に誘われん限り行かん。行かんが日本にいる限りはブツをどうしても見たい場合は展覧会に足を運ばねばならん。見ないか、混雑を我慢するか?我慢しながらみるしかない時に、混雑の問題をされたらちょいと辛いかもしれない。特に昨今のわたくしは大変に下流なので海外など既に行けないから、日本で見るしかないが。よく考えたらそもそも島にいるのでどんな美術展だろうと見れないのであった。
まぁそういうわけでブログ主が、独り占め出来ない日本の状況をくさされて、嫌み臭くナニゴトか言いたかったのかもしれない。しれないのだが・・・・

・・・「分かち合い」?

「分かち合い」とはキリスト教教会でよく聞く言葉である。

わたしは実はこの「分かち合い」という言葉が嫌いである。はじめて聞いた時はぞぞぞっとしたものであった。
カトリックギョーカイは、表向きは善人で振る舞おうとする人々が多く、集会などがあるとこの「分かち合い」が飛び出す。分かち合ったからといってなにか生まれるわけじゃないと思うんだが分かち合いたがる。それがはじめは辛くて困った。ミサだけ出てるような殺伐とした信者なら「分かち合い」なんかせずにいられるが、うっかり第三会員になったので分かち合いしなきゃいけない集会に出る機会が多くなってしまった。かくして最近はスイッチを切り替えて、「分かち合い」についてはまぁ脳みその感度を下げるというか、自分の中で「分かち合い」を畏れぬペルソナを形成し、そういう人であることにしている。そういうわけで、自分からも「分かち合い」という言い方が出来るようになっている。ギョーカイ遊泳術としては進歩である。

しかし、ほんというと「分かち合いなんか出来るわけないじゃん」な人間であり、「分かち合い」とかが好きなシューキョー世界での常識的感覚から浮くことが多いゆえに、個が辛辣な、ある意味殺伐としたとこが優れているよな美術世界に「分かち合い」なんか持ってこないで欲しいなどと思うのですよ。毛穴がぞぞっとしてさぶいぼ状態になってしまうのコトであるよ。つまりマジに「分かち合い」なんて言ってるんだったらちょっと引くなというか、怒る。

美術を見る時、空間性というのは大切なんである。わたくし的にはルーブルですら実は駄目である。ありゃ絵画の棺桶だ。ピエタをしらじらとした空間で見たくないよ。その点フィレンツェ美術の多くは幸せだなぁ。ちゃんと教会にある。でもまぁフェルメールの絵辺りは教会美術でも無いから、美術館でもありだなとは思うけど。

問題となっている他者の存在については、やはり人はなるべくまばらな方がいい。そういうわけで出来るだけ人が来ない時間にいきたいなどとは思う。団体さんにぶつかってしまった日には泣いてしまう。ミラノでミケランジェロの奴隷を見ようとしたら大量の韓国人団体客に囲まれていて、動こうともしないしガイドがそれを炎々説明してるしで、奴隷を見るのを諦めた苦い思い出が蘇る。ウィーンのクンストヒストリがうんたらどうしたとかいう美術館ででかいドイツ人の巨体に阻まれブリューゲルを見るのに苦労した。どうしてドイツ人は楯にも横にもでかいんだ?
まぁかように他人様など実は観賞の邪魔である。ここに隣人愛精神など持ち出しても仕方がないぐらい殺伐とした世界である。分かち合いとやらは、一通り見終わってのち、茶でもしながら語る時にするもんではないか。そういう時の「分かち合い」とやらは楽しいけどな。

もっとも絵画に突っ込み入れながらみるという観賞法があって、関西的漫才精神で友人とやって見るのも面白いけど、こういうことしてると作品見てないからね。お勧めしないです。絵と対話したい時は殺伐としないと難しいと思うのですよ。