Macはカトリック的だとエーコが言った

uumin3さんとこで面白い記事発見。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080717#p1
マッキントッシュカトリック(Umberto Eco)

記号学なんてよく判らないことをやってる、ウンベルト・エーコが1994年(←ここ重要)にDOSマッキントッシュの闘争をこのように解説した。

私は確信を持って次の意見を表明したい。つまりマッキントッシュカトリックであり、DOSプロテスタントであると。

うわ。すごい。

この後に続く解説は、正直ピンと来ない方も多いと思うし、またプロテスタント諸派の多様性を鑑みると「そうとも言い切れないとは思うんだけど」などという感想もあるが、宗教改革時の動きを念頭に置いたという前提で考えるべき文書か
。まぁ多少戯れ言めいたシロモノかもしれないが面白い。

マッキントッシュは対抗宗教改革*1的であり、イエズス会の「ratio studiorum」に影響されてきている。

ここにあるratio studiorum(学事規定)とはすなわちRatio atque Institutio Studiorum Societatis Iesuで、まぁ要するにイエズス会の神学校での教育要項というかそういうシロモノ。16世紀に出されたこの教育指導要項はフランスの旧体制に見られる「教養」世界アカデミズムの有様を知るうえで面白いとかで研究してる人もいるようだが、兎に角、宗教改革以降、フランスをはじめとしたカトリック圏における近代の知のを支えてきた教育システムと理解されていいかもしれない。ただ知識を得るだけでなく「知識人」に到る道のごときものと言うべきか?こういう教育要項は各修道会も持っているのだが、敢えてイエズス会というのは、やはりこの会のもつ知性的に特化された集団ということに主眼を置いた方法論かもしれない。ディベートに勝ちそうな教育をしてきた会はこの他にドミニコ会などもあるが、やはり近代という新時代においては多少時代遅れとなっていたかもしれない。

わたくしはイエズス会のその教育要項などはよく知らんのだが、イエズス会の特異性というのは『霊操』にも見られるような、マニュアルを作り出したということもある。本来この手の日本で言えば禅寺坊主がやってる精神修業をこの耶蘇坊主は科学的な分析とも言えるような方法で体系化し手引きを書いた。この一つからもエーコが言う

彼らの文書が印刷される「かの時」―よしんばそれが天の王国ではないにせよ―に段階的に至るには、いかにしなければならないかを告げるのである。
 それは教理問答的であり、啓示の本質が単純な形式と壮麗なイコン(icon)*3によって取り扱われるのである。ここではすべての者が救済の権利を持つ。

・・・といった光景が理解出来るような感じではあるが。

しかしその後に続くDOSの解説については流石に既にマシン語を覚えてコマンドを打ち込む時代をカルヴァン的であると解するという辺りがイマイチよく判らんのであるが、これは予定説めいたものをさしているのであろうし、また万民を司祭として振る舞うことを要求する、つまりまぁ「お上に任せときゃいいじゃん」的な態度ではなく信徒個々に聖域に特化されてきた精神的な鍛練を要求されるようなそういう光景を指しているのであろう。そこではバロックに見られるようなカトリック的な祝祭性劇場性は身を潜め、ピューリタニズムのように厳格を極めるものまで登場するわけだが。

その後のウィンドウズについての説明はまぁともかくも、エーコカトリックプロテスタントをこんな風に見てるんだな的な例として面白かった。

で、わたくしはパソコンをはじめていじったのは実はマッキントシュであった。大学にあったんだが、当時のMacは小さな箱で、白黒画面で、簡単な図などが書けた。兎に角初心者にも簡単一目瞭然なインターフェイスではあった。他方DOSマシーンをいじる機会があったんだがどう動かしていいのか判らず、使える人にアプリを出してもらうまでそこにたどり着けず、その後の処理もよく判らなかった。お陰でパソコンって難しいなという印象しかない。Macはパソコンというよりアメリカ生まれの特殊なシロモノという認識でしかなかったし。それぐらいまだMacはマイナーではあった。その後は美術ギョーカイ人が盛り上げていったせいもあり、Macをいじる機会は多かったが、マイノリティ過ぎてゲームなんか出来ないとか、面白いソフトは見られないということで、ウィンドウズ95の登場の時にそっちを購入したのがマイパソコンの事始めであった。しばしMacの使いかってのよさに比べると判らないファイルのありかとか、勝手にそれを決める強引さに悩まされた。ファイルにヒエラルキアがありそれに熟知していないとなんだか判らないことになる。エクスプローラーを開いてはにらめっこするというのが多かった。
まぁ、慣れればどっちも同じである。インターフェイスの慣れは無意識の動作を規定するので、そういうほうでの慣れの問題の方が大きくなったけど。ただその後Macに乗り換えてやっぱりこっちのほうが使いやすいや〜と思ったのは言うまでもなく、再びWINを前にするとガマの油のように汗を流して凍りつく羽目になる時は多いけど。

で、まぁ組織的にはヒエラルキアが存在しないはずになっているプロテスタントのほうがMacっぽいのかな?な気持ちになるが、その精神性を深く掘り下げていくとエーコセンセのような感想も飛び出すのだなと。まぁそういう意味で面白かったのである。

カトリックのヒエラルキアやお約束めいたものは高度に記号化されていて、そこを直視すると見えやすいものがある。一見するとそうしたお約束は複雑に見えるが、もともとがキリスト教というのはその教理はかなり複雑といってもいい。誰が三位一体についてすらすらと話すことが出来るのだろうか?三位一体についてお上の発表を鵜呑にして話すのではなく、きちんと知らない人に判らせるため、疑問を持つ人に納得出来るように解説出来るのか?等々、たった一つの教理を取ってもこの有り様である。カトリックのそうしたお約束、ヒエラルキアわけわかめな儀式も、美術も、音楽も、聖人や天使、聖母マリア、定型の祈祷文、巡礼地、ロザリオのような信心業、それらはは可視化された教理への窓であり、アイコンであるというのはその通りであり、そうしたアイコンをデスクトップに大量にちりばめているとは言えるな。

もっとも、イタリア人ならではの意見だとは思えるけどね。